「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

1909-12-01から1ヶ月間の記事一覧

 1909(明治42)年12月28日(火) 金牌並徽章御嘉納

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.46-47 ○金牌並徽章御嘉納 兼て青渊先生は合衆国造幣局より金牌を、米国太平洋沿岸聯合商業会議所より紀念徽章を陛下へ献納の儀それそれ手続を経て嘱託ありしに付き、青渊先生は昨年十二月二十八日岩倉宮内大臣へ執奏の儀…

 1909(明治42)年12月28日(火) (69歳) 渋沢栄一、金牌と徽章を献上するため宮内大臣に面会 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日栄一、宮内大臣公爵岩倉具定に面会し、先にアメリカ合衆国造幣局長より託されたる金牌、及び同国太平洋沿岸聯合商業会議所より託されたる金剛石入徽章を伝献す。翌四十三年一月五日嘉納の旨通達あり、仍て十四日之を米国の関係者に通知す。 出典:『渋沢…

 1909(明治42)年12月26日(日) (69歳) 渋沢栄一、東京市第9回講演会でアメリカ旅行談をなす 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、東京高等商業学校講堂に於て東京市第九回講演会開催せられ、栄一之に臨みアメリカ旅行談をなす。爾後翌四十三年一月十七日日本橋倶楽部月次会、同月二十二日東京高等商業学校、歓迎会同月二十七日自治協会招待会、二月二十二日第四回議員銀行家連合懇…

 1909(明治42)年12月25日(土) 日本での報道「渡米実業団帰着」(東京経済雑誌)

『東京経済雑誌』 第60巻第1522号 (1909.12.25) p.1102 ○渡米実業団帰着 米国太平洋沿岸商業会議所の招待を受けて去る八月十九日ミネソタ号にて観光視察の途に上りたる我渡米実業団は爾来四ケ月間国賓として米国官民の叮重なる待遇を受け、両国の国交に貢…

 1909(明治42)年12月25日(土) 経済学協会主催歓迎会

『東京経済雑誌』 第60巻第1523号 (1909.12.31) p.1241 東京経済学協会十二月例会 去る廿五日午後五時より富士見軒に開きたる東京経済学協会十二月例会に於ては、渡米実業団中の会員渋沢男爵・渡瀬寅次郎・小池国三の三君を招きて歓迎の意を表し、更に農商…

 1909(明治42)年12月25日(土) 基督教青年会主催歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △基督教青年会(廿五日) 基督教青年会にては廿五日正午築地メトロポールに於て青渊先生の歓迎会を開きたり、午餐後主客の鄭重なる挨拶ありて、直に散会せりといふ (『渋沢栄一伝記資料』第3…

 1909(明治42)年12月25日(土) (69歳) 渋沢栄一、東京経済学協会の帰国歓迎会で演説 【『渋沢栄一伝記資料』第46巻掲載】

是月十七日、栄一を団長とする渡米実業団帰国す。当協会、富士見軒に於て、十二月例会を兼ね栄一の歓迎会を開催す。栄一出席して演説をなす。 出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業…

 1909(明治42)年12月24日(金) 米友協会主催歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △米友協会歓迎会(廿四日) 米友協会にては、二十四日午後六時より日本橋倶楽部に於て青渊先生一行を招待して歓迎の宴を張れり、主客約五十名、宴将さに終らんとする頃、会頭金子男の祝辞並に…

 1909(明治42)年12月21日(火) 鰻会主催歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △鰻会の歓迎会(廿一日) 鰻会にては廿一日午後五時より日本銀行社宅に於て青渊先生の歓迎会を兼ねて第六回官民懇話会を開きたり、当夜の出席者は左の如し 桂首相兼蔵相・小村外相・平田内相…

 1909(明治42)年12月20日(月) 東京銀行集会所等主催京浜団員帰国歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △銀行家の歓迎会(廿日) 東京銀行集会所・東京手形交換所・東京興信所・東京銀行倶楽部の四団体発起と為り、廿日午後六時より銀行倶楽部楼上に、青渊先生を始め京浜渡米団員並に水野総領事を…

 1909(明治42)年12月20日(月) (69歳) 渋沢栄一、東京手形交換所等銀行関係四団体主催による渡米実業団帰国歓迎会で演説 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

是日、銀行倶楽部に於て当交換所及び東京銀行集会所・銀行倶楽部・東京興信所四団体主催による、渡米実業団京浜団員帰国歓迎会開かる。栄一出席して演説をなす。 出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 …

 1909(明治42)年12月19日(日) 東京商業会議所主催東京会議所選出団員帰朝歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △東京商業会議所の歓迎会(十九日) 東京商業会議所主催と為り、十九日午後四時日本橋倶楽部に青渊先生令夫人一行を招待して歓迎会を開きたり、種々の余興ありし後、午後六時開宴半にして歓迎…

 1909(明治42)年12月19日(日) 日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46 ○青渊先生歓迎会彙報 △日本貿易協会の歓迎会(十九日) 日本貿易協会にては、十二月十九日午後三時より青渊先生並に渡米団一行を招待して歓迎会を開かれたり、来会々員百余名にして、池田副会頭は懇切なる歓迎の辞…

 1909(明治42)年12月19日(日) (69歳) 渋沢栄一、渡米実業団帰朝歓迎会で演説 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会、同協会に開かれ、副会頭池田謙三の歓迎の辞に対し栄一謝辞を述ぶ。同じく是日東京商業会議所主催同所選出渡米実業団員帰朝歓迎会、日本橋倶楽部に催さる。次いで二十日東京銀行集会所等主催京浜間在住渡米実業…

 1909(明治42)年12月18日(土) 日本での報道「渡米団帰る」(東京日日新聞)

『東京日日新聞』 第11863号 (1909.12.18) ○渡米団帰る 米国聯合実業団の招待に応じ、我国実業家を代表して過る八月十九日横浜解纜のミネソタ号にて其の途に上りたる渡米実業団の一行四十九名は、爾後四ケ月に亘りて具に米国の産業其の他の視察を了へ海上…

 1909(明治42)年12月18日(土) 八十島親徳、飛鳥山邸にて渋沢栄一夫妻の見聞雑談を聞き、留守中の報告を為す

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 十二月十八日 晴今朝飛鳥山邸ニ伺候ス ○中略偖大川平三郎氏其他彼是来客ハアリシモ、男爵及令夫人ニモユルユル御面会ヲナシ、食事乍ラ彼地ノ壮大ナル事共色々ノ見聞雑談ヲモ承リタリ、又留守中予カ主…

 1909(明治42)年12月17日(金) 日本での報道「実業団の帰来」(東京日日新聞)

『東京日日新聞』 第11862号 (1909.12.17) 実業団の帰来 我邦観米実業団の米国に在ること前後三ケ月、其間常に南船北馬、或は工場に或は銀行会社に、臨覧巡閲絶て寧日あることなし、今や全く所期の観察を終へ、本日を以て我邦に帰来せんとす、卿等の一行は…

 1909(明治42)年12月17日(金) 渋沢栄一の演説「巧妙ニシテ、小村外相ノ歓迎演説ノ余リニ簡単冷淡ナルニ対シ、当意即妙、鋭利ニシテ然カモ円満ナル批評ノ如キ」

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 十二月十七日 晴天○上略今日ハ男爵始渡米団一行ハ目出度帰着ノ日取也、人々ハ早天ヨリ横浜ヘ出迎ハレシモ、予ハ寒風ニ曝サルヽノ健康ヲ害スヘキヲ恐レ乍遺憾之ヲ略シ、正午箱車ニ乗シテ商業会議所ニ…

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京商業会議所で歓迎会に続き解団式開催

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 ○渡米団解散式 中野委員長は米国に於ける旅行の概要を報告し、次に青渊先生は解団式告辞を述べられたり、即ち左の如し ○解団式告辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略スいとも森厳に解団式…

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京に移動し、東京商業会議所で帰朝歓迎会。渋沢栄一は宮内省へ参内

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 ○東京の歓迎 △新橋駅の壮観 団員を乗せて恙く入港せる地洋丸の雄姿を横浜に迎へたる家族・親戚・知己の大半は、午前十時四十分発列車に乗り、一行に先じて帰京せるが、十一時半列車新橋に着して改札口を出づる者少…

 1909(明治42)年12月17日(金) 横浜上陸後、横浜商業会議所による歓迎会に出席

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 △横浜商業会議所の歓迎 斯くて午前九時四十分となり、一万三千八百噸の巨船は八戸繋離指揮官の先導により、恙なく岸壁に横附けとなり、万歳の声は雷の如く、余韻海面に轟き渡り、音楽隊の奏する歓迎の曲に和して盛…

 1909(明治42)年12月17日(金) 渡米実業団一行、横浜に上陸 【航海第17日】

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458 ○第一編 第九章 帰航日誌 第三節 船中の下 十二月十七日 (金) 快晴 今暁船は已に東京湾口にあり。天晴れ、気清く、富岳皚々として中天に聳へ、又我等を迎ふるものゝ如し。 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻…

 1909(明治42)年12月17日(金) (69歳) 渋沢栄一を団長とする渡米実業団一行、横浜に帰着 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日栄一、渡米実業団を率ゐて横浜に上陸し、直に東京に入り、宮内省に出頭し、宮内大臣を経て帰朝の旨を奏上す。午後、東京外五商業会議所聯合会主催同団帰朝歓迎式、東京商業会議所に催さる。外務大臣伯爵小村寿太郎・農商務大臣男爵大浦兼武の祝辞に対し…

1909(明治42)年12月16日(木) 日本での報道「渡米実業団歓迎彙報」(東京日日新聞)

『東京日日新聞』 第11861号 (1909.12.16) 渡米実業団歓迎彙報 愈よ十七日午前七時地洋丸にて横浜着港の渡米実業団一行に対し、横浜・東京両市商業会議所及其他各方面に於ける歓迎準備は左の如し △横浜商業会議所 一、渡米実業団は十七日午前九時横浜新港…

1909(明治42)年12月16日(木) 一行の帰朝にあたり、準備に種々多忙

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 十二月十六日 晴○上略 昼出勤、明日男爵一行帰朝サルヽニ付、準備ニ種々多忙也、但予ハ医戒モアル事故、可成夜ノ外空気ニ触レヌ様注意シ、五時半帰宅○下略 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.407掲載)

 1909(明治42)年12月16日(木) 総会開催、渋沢栄一は体調不良で欠席。船動揺により演芸会は中止。一行宛に来電多数 【航海第16日】

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458 ○第一編 第九章 帰航日誌 第三節 船中の下 十二月十六日 (木) 曇 午後三時食堂に総会を開く、団長は尚臥床中にて欠席、中野氏より諸般の報告あり、残務整理の件等に付協議す。夜に入り喫煙室に競技会の…

 1909(明治42)年12月15日 日本での報道「米国一の富豪ロツクフエラー氏と会見す」(実業之日本)

『実業之日本』 第12巻第26号 (1909.12.15) 米国一の富豪ロツクフエラー氏と会見す 渡米団特別通信員 加藤辰弥 『二十五年宴会に出ない先生』ロツクフエラー氏に訓話を聴くのは、准不可能の事だといふ人もあつたので、尚更会つて見たいといふ気になつて、…

1909(明治42)年12月15日(水) 渋沢同族会開催、渋沢栄一帰朝の歓迎順序等について評議

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 十二月十五日 晴○上略 夕兜町ニテ同族会開会、愈明後日ハ青渊先生無事帰朝サルヘキニツキ、歓迎ノ順序等モ評議アリ (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.407掲載)

 1909(明治42)年12月15日(水) 地洋丸に対する感謝の決議 【航海第15日】

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.555-556 ○第三編 第三章 感謝の決議 第四 往復汽船に対する決議 ○上略 乙 地洋丸に関する感謝の決議(原文英語)千九百九年十二月十五日 東洋汽船会社地洋丸船長ダブリュー・ダブリュー・グリーン殿 拝啓、陳者下…

 1909(明治42)年12月15日(水) 開催が予定されていた総会は、激しい船の揺れで中止 【航海第15日】

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458 ○第一編 第九章 帰航日誌 第三節 船中の下 十二月十五日 (水) 曇 本日総会を開く筈なりしも、船体動揺甚しく、為めに流会となる。 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.380掲載) 参考リンク 地洋日記 同[12…