「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月25日(土) 経済学協会主催歓迎会

東京経済雑誌』 第60巻第1523号 (1909.12.31) p.1241

    東京経済学協会十二月例会
去る廿五日午後五時より富士見軒に開きたる東京経済学協会十二月例会に於ては、渡米実業団中の会員渋沢男爵・渡瀬寅次郎・小池国三の三君を招きて歓迎の意を表し、更に農商務省工務局工務課長岡実君に請ふて工場法制定に関する説明を聴けり、其の演説筆記は次号に掲載すべし、当夕の出席者は左の如し
 渋沢男爵    渡瀬寅次郎  小池国三    岡実
 阪谷男爵    小松崎吉雄  永田忠吉    簗田〓[鉄+久]次郎
 佐藤伊三郎  内田原俊吉  河口半瑞    三枝光太郎
 寺本栄太郎  瀬下清通    金子範二    鈴木良輔
 足立太郎    草野門平    本多貞二郎  黒木嘉幸
 高橋正次郎  竹内廉一    西脇健治    田野井多吉
 樋口与三次  野村宗十郎  平野元吉    昆田文治郎
 高倉義雄    北崎進     塩島仁吉    黒沢和雄
 森一兵     山中隣之助  島田三郎    木村亮吉
 照井政太郎  郷隆三郎    諸井四郎    石塚剛毅
 矢野政二    木全良八郎  三浦鉄太郎  小池寛次
 外山貞二郎  神田鐳蔵
  ○渡米実業団ニツイテハ本資料第三十二巻所収「渡米実業団」参照。
(『渋沢栄一伝記資料』第46巻p.318掲載)


竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46

    ○青渊先生歓迎会彙報
△経済学協会歓迎会(廿五日) 経済学協会にては廿五日夜青渊先生を招待して歓迎旁々例会を開きたり、先生は先づ渡米団一行が「能く自我を没して統一を保ちし事と、其待遇の極めて懇篤なりし事を、一々例証を挙げて説明し、扨て
  米人は国自慢も激しけれ共、同時に日本の商工業の前途に対して非常に恐怖心を抱き、飽迄競争せんとするの決心を示し居れり、或点までは日本を買被り居るかの観なきに非るも、一歩を過ぐれば東洋の将来は総て日本の専有に帰す可しと確心し居れり
とて、米人が先生に向て日本が米国より買ふ事の少くして売る事の多きを語たるに対し、先生が米人は国産を海外に売出す手段に於て、遥に独逸人に劣る旨を答弁し置きしも、彼の無尽蔵の天産物を抱いて東洋に雄飛せんとしつゝある以上は、決して油断ある可からず、米国が今日の雄勢は固より天産物に富むが為なれ共
  一面に於ては米人の奮発力に帰せざる可からず、何となれば彼等は学理よりも先づ実利を先として、法令あれ共之に束縛されず、苟も利益ありと認むれば直ちに着手するの一特色を有す、之を日本が学理にのみ走りて事実の反するに注意せず、万事を法律つくめに解釈せんとするに比すれば雲泥の相違あり、日本の現状は決して商工業を発達せしむる所以にあらず
とて彼我企業の相違を指摘し、帰朝早々之に対する方策は容易に画策し得ずと雖も、日本は此際大に啓発するなくんば、米人の蹂躙に甘ぜざるを得ざるに至る可しと語り、又た排日熱はカルホルニヤ労働協会の存する限り到底々止せざるべきも、日本政府が余りに正直に移民禁止を断行せしため、加州の開発に一頓挫を来しつゝありとの新事実を添加し、更に内地の道路・旅館等が外人を招致するに恥かしく、是等の改善をも試みざれば、都市としても国家としても経済上に非常の損失あり」との意見をも追加せり、散会したるは午後九時過なりといふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.419掲載)