「渡米実業団」日録

情報資源センター・ブログ別館

 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月19日(日) 東京商業会議所主催東京会議所選出団員帰朝歓迎会

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46

    ○青渊先生歓迎会彙報
△東京商業会議所の歓迎会(十九日) 東京商業会議所主催と為り、十九日午後四時日本橋倶楽部に青渊先生令夫人一行を招待して歓迎会を開きたり、種々の余興ありし後、午後六時開宴半にして歓迎委員馬越恭平君の挨拶あり、之れに対し青渊先生の謝辞あり、主客歓を尽して散会したるは午後九時頃なりしといふ、青渊先生謝辞の大要左の如し
  我等渡米団一行は彼の地に於て到る処に非常なる歓迎を受け、米国民上下の誠意と其厚情に対しては、殆んど何等感謝の辞なきに拘らず、何となく物足らぬ心地せらるゝは、其見るもの聞ものが悉く日常眼に触れ耳に入るものと異れる点なりき、然るに今茲に目に慣れ耳に慣れたる盛宴に招かれ、久し振りにて諸君と相会し相歓語するを得るは真に愉快に耐へず、我等は久しく彼の地にありて一興行をなし来れり、悪く申せば猿芝居を興行したるものなり、即ち興行主は今夕此席に珍らしく和服姿にて居らるゝ水野総領事にして、余は差詰め座頭の格なり、さて一行が彼の地へ上陸以来常に起臥せしは汽車中にして、事実僅かに方六尺に満たざる事とて、時として不便窮屈を感ずる事ありしも、而も一行をして殆んど六十日間特別列車を専用せしめし如きは、交通頻繁なる彼地に於ては実に異常の優遇と言はざる可からず、加之彼国民が到処に於て我等一行に対し、誠心誠意を以て歓迎せし事は、克く言辞の尽す処にあらず、されば我等も亦之に対するに誠心誠意を以てせざる可からずと信じ、先般会議所に於て開陳せしが如く、唯だ忠君愛国の至情を以て終始一貫し多少其効果ありしと信ず、然して一行が彼土に些かなりとも日米親交の種子を蒔き来れりとするも、今後之を培養し之をして結実せしむるは一に諸君の力に俟たざるを得ず、尚ほ一行が今回の巡遊に依つて得たる視察及感想談は多々あるも、こは又他日時を得て開陳する事とし、今夕は諸君の言に甘へ胸襟を披いて歓話せんと欲す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.416-417掲載)