「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

渡航前

 1909(明治42)年8月18日(水) 渋沢栄一、渡航前日の様子

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十八日 半晴 暑午前六時起床、入浴シ、畢テ数多ノ来人ニ接シ且揮毫ヲ試ム、午前九時半岩崎男爵ノ病ヲ訪ヒ、又、大橋新太郎氏ヲ訪ヒ、午前十時兜町事務所ニ抵リ、同族会ヲ開キ要件ヲ議決ス、畢テ留守…

 1909(明治42)年8月17日(火) (69歳) 渡米実業団団員、明治天皇より午餐を賜る 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、天皇陛下、渡米実業団員一同に対し、芝離宮に於て午餐を賜ふ。栄一、席上団員を代表して答辞を述ぶ。 出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款…

 1909(明治42)年8月16日(月) 渋沢栄一、総理大臣桂太郎による送別午餐会に出席

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十六日 晴 暑○上略 十二時桂総理大臣官舎ニ抵リ午飧会ニ列ス、小村・大浦二氏参会ス、中野・土居・西村・大谷氏等来会ス、畢テ桂大臣・小村大臣等ヨリ種々ノ談話アリ ○下略 (『渋沢栄一伝記資料』第…

 1909(明治42)年8月15日(日) 渋沢栄一、徳川慶喜・大隈重信・徳川家達を訪問

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十五日 曇 暑○上略 午飧畢テ小石川大六天((第六天))ニ抵リ、徳川公爵○慶喜ニ謁シ渡米ノ告別ヲ為ス、又早稲田ニ大隈伯ヲ訪ヒ告別シ、且種々ノ談話ヲ為ス、又千駄ケ谷ニ徳川公爵○家達ヲ訪ヒ告別シ …

 1909(明治42)年8月15日(日) (69歳) 渋沢栄一、日本貿易協会・日本工業協会主催の送別会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第54巻掲載】

是日、芝区田町浅野総一郎邸に於て、当協会及び日本工業協会主催による渡米実業団送別会開かる。栄一出席し、団長として謝辞を述ぶ。十二月十九日、当協会主催の渡米実業団帰国歓迎会開かる。栄一出席して謝辞を述べ、且つ日米貿易に就きて演説をなす。 出典…

 1909(明治42)年8月14日(土) 渋沢栄一、夫人令嬢を伴い日本橋倶楽部での送別会に出席

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十四日 晴 暑○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、各実業界ノ親友ヨリ催サレタル送別会ニ出席ス、種々ノ余興アリ、食卓上大倉氏ヨリ送別ノ辞アリ、依テ其答辞ヲ述ヘ、夜十時宴散シテ帰宿ス、此夜兼子…

 1909(明治42)年8月13日(金) 渋沢栄一、午餐下賜について告げられる

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十三日 晴 暑○上略 十時宮内省ニ抵リ、渡辺次官ニ面会シテ、渡米実業団ニ午飧御下賜ノ事ヲ示サル ○下略 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.48掲載)

 1909(明治42)年8月12日(木) 外務大臣官舎における送別会

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 八月十二日 晴 暑○上略 午後五時小村外務大臣官舎ニ抵リ、渡米実業団全体ノ送別会ニ臨席ス、大臣ヨリ政事・経済ニ関スル懇切ナル訓示演説アリ、後来賓ノ代表者トシテ一場ノ挨拶ヲ述ヘ、夫ヨリ洋食ノ夜飧…

 1909(明治42)年8月11日(水) 東京商業会議所で打合会、亀清楼で懇親会開催

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) ○上略 午飧後東京商業会議所ニ抵リ、渡米団ノ打合会ヲ開キ、衆望ニヨリテ団長ニ推サル ○中略 午後五時亀清楼ニ抵リ、渡米実業団ノ懇親会ヲ開ク、外務・農商務・文部三省ノ次官其他ノ来賓アリ、席上一場ノ…

 1909(明治42)年8月10日(火) 「太平洋沿岸聯合商業会議所」名の招待状、東京商業会議所に到着

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 八月十日、加州の桑港、ロスアンゲレス、オークランド及サンディアゴ四商業会議所の招待状、及び曩きにシヤトル、タコマ、スポケーン[、]ポートランド四商業会議所より送り越したる招待状とを合併して、之れ…

 1909(明治42)年8月10日(火) 名称「渡米実業団」の決定、徽章図案の検討開始

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 是に於て東京商業会議所は、便宜上主人役と成り、出発前準備の相談会を其楼上に開き、団員を会合して協議数回を重ね、八月十日を以てまず本団の名称を渡米実業団と定む、こは米国側より命名せるものを本とし…

 1909(明治42)年8月9日(月) 東京商業会議所主催送別会、日本銀行総裁による送別の宴

『竜門雑誌』 第255号 (1909.08) p.44-47 ○送別会彙報 青渊先生が八月四日以後各処の送別会に臨まれたる概要は左の如し[中略]○東京商業会議所の別宴 東京商業会議所会員諸君は、青渊先生一行の為め八月九日亀清楼に於て鄭重なる祖道の宴を開かれたり○松尾…

 1909(明治42)8月8日(日) 外務大臣、在米大使らに訓令「政府趣旨による民間人応召につき、便宜斡旋をするように」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 八月八日、小村外務大臣は、在米帝国大使・総領事・領事に宛て、今回の招待は、米国実業家が、昨年来朝の際の歓迎に対する、答礼の趣旨に基づけるものなりと雖も、其本意は、相互通商関係を増進するの途を講…

 1909(明治42)年8月7日(土) 外務大臣、シアトル領事に訓令「ニューヨーク総領事夫妻同行の旨、米国側に公然通知を」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 八月七日、小村外務大臣は、田中シヤトル領事に対し、水野総領事夫妻の実業団に加はる旨を、米国側に公然通知すべく訓令したり。 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.30-31掲載)

 1906(明治39)年8月5日(木) 報道『東京日日新聞』第11730号(1909.08.07)

『東京日日新聞』 第11730号 (1909.08.07) 渡米実業家決定 米国会議所へ通牒米国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じて渡米すべき我実業家の人選は、去る四日漸く全部の決定を見るに至りたるを以て、外務省は五日桑港領事に電報して、各商業会議所へ夫々通牒…

 1909(明治42)年8月4日(水) (69歳) 渋沢栄一、銀行集会所等四団体主催の送別会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、東京銀行集会所等四団体主催の渡米送別会、丸の内東京銀行集会所に催さる。総代豊川良平の送別の辞に対して栄一答辞を述ぶ。次いで九日東京商業会議所主催送別会、日本銀行総裁松尾臣善主催送別会、十二日外務大臣小村寿太郎主催送別会、十四日大倉喜…

 1906(明治39)年8月2日(月) 東京商業会議所において臨時総会開催

『東京商業会議所月報』 第2巻第8号 (1909.08) 八月二日午後六時五十分本商業会議所に於て臨時総会を開会したり、其の経過の概要左の如し 一 米国商業会議所より本邦実業家招待の件に付、各方面に交渉したる顚末報告の件 本件は、本会開会前の協議会に於て…

 1909(明治42)年7月31日(土) シアトル領事より、名古屋商業会議所の件について回答

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.605-618 之れ [外務大臣からの訓令] に対して田中シヤトル領事は、折返し七月三十一日附を以て、今回の招待状に名古屋を加へざりし米国側の趣旨は、昨年日本よりの招待に名古屋が加はり居らざりしが為めにして、右…

 1909(明治42)年7月31日(土) 渋沢栄一、同族会を開催。留守中要務について話し合う

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 七月三十一日 晴 大暑○上略 二時兜町事務所ニ抵リ、同族会ヲ開キ ○中略 米国行ニ関スル件及留守中ノ要務ヲ談ス、午後六時日本橋倶楽部ニ抵リ、留別ノ為メ親戚ヲ会シ晩飧ヲ共ニス、食卓上一場ノ留別演説ヲ…

 1909(明治42)年7月30日(金) 外務大臣、名古屋商業会所の件でシアトル領事に訓電

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.605-618 初め米国よりの正式招待状到着せざる前、今回の招待の件に就いて、既に電報を以て通知を受けたる際、至急準備に取掛るの必要あり、四月十二日、外務大臣は官邸に於いて渋沢男爵・中野会頭、其他京浜間の実…

 1909(明治42)年7月30日(金) シアトル領事、税関通過、費用負担等に関する米国側の意向について報告

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 一行の到着に際し、移民及税関簡易通過の儀は、既に先年米国実業家来朝の際に、我政府に於ても、好意を以て其取計ひをなしたることなれば、今回の一行に対しても、米国側が同様の好意を表し、之れに酬ゆる所…

 1909(明治42)年7月30日(金) 渋沢栄一、行程について萩原通商局長と打合せ

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵) 七月三十日 晴 大暑○上略 午前十一時外務省ニ抵リ、萩原通商局長ニ面会シテ米国行ニ付行程ノ順序改正ノ事ヲ談ス、岩原謙三氏来会ス、 ○中略 午後兜町事務所ニ抵リ ○中略 堀越善重郎氏来リ、米国行ノ事ヲ…

 1909(明治42)年7月27日(火) 「増田明六を召し連れらるる事に決す」

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 七月二十七日 晴 九十度○上略午後篤二殿ヨリ電話アリ、男爵ハ予ノ辞退、事情無拠モノト認メ快諾増田明六ヲ召連レラルヽ事ニ決スト、之ニテ一安心セリ ○中略 必要ノ個処ヘハ慢性胃腸カタルノ為、医戒…

 1909(明治42)年7月27日(火) 報道『東京日日新聞』第11719号(1909.07.27)

『東京日日新聞』 第11719号 (1909.07.27) ○京浜渡米実業家確定東京の渡米実業家の人選は尚一名決定せざりしが、廿六日赤坂興農園主渡瀬寅次郎氏の承諾を得、之にて正賓・専門家全部左の如く確定したるを以て、廿七日午後三時より商業会議所に於て準備会を…

 1909(明治42)年7月27日(火) 外務大臣、ニューヨーク駐在領事に夫人とともに一行に同行するよう訓令

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月二十七日に至り、小村外務大臣は紐育駐在水野総領事に対し、今回渡米する実業家を指導し、各地歓迎交歓に対し、主客双方を満足せしむる為め、同行を命ずるに因り、九月初旬実業家のシヤトル着を待受け、…

 1909(明治42)年7月27日(火) 文部大臣、外務大臣からの7月25日付照会に同意

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 種々協議の結果、七月二十七日に至り、小村外務大臣は小松原文部大臣に対し、[中略] 教育家及び農業者各一名の外、[中略] 医学者一名をも派遣せんことを希望する旨、七月二十五日を以て、文部大臣に照会した…

 1909(明治42)年7月25日(日) 八十島親徳、渡米を辞退

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 七月二十六日 晴 炎暑九十度○上略 今朝橋本左武郎氏(佐藤氏ト相談ノ上)ヲ訪ヒ診察ヲ受ク ○中略 偖胸部診察ノ結果、橋本氏ノ診断ハ如左○中略一右ノ次第ナル上ニ、胃弱ノ症状ヲ有スル身体ナレバ、此…

 1909(明治42)年7月25日(日) 外務大臣、専門医師の同行について文部大臣に照会

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [外務大臣は] 又今回の一行は多数なるを以て、教育家及び農業者各一名の外、専門医師の一行に加はるの必要あるのみならず、帝国の医学を先方に紹介し、且つ米国に於て有益なる調査を為すの便利なるが故に、…

 1909(明治42)年7月24日(土) 八十島親徳「渡米団相談会に臨む」

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 七月廿四日 晴暑○上略 出勤後、昼商業会議所ニ至リ、渡米団相談会ニ臨ム、予ハ実ニ渋男ノ随員ナルモ、中野・大橋両氏等ノ好意ニテ、表面上ハ特別調査委員ノ一員ニ加ハル事トナル (『渋沢栄一伝記資…

 1909(明治42)年7月23日(金) 外務大臣、旅程の短縮等について各領事に訓令

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月二十三日に至り更に小村外務大臣は、一行の希望として又た最後の要求として、一行中には老人婦人も少なからざれば、数千哩の旅行と日々の歓迎には堪へられざる事情もあるに付、主人側に交渉し、成るべく…