「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

1909-12-17から1日間の記事一覧

 1909(明治42)年12月17日(金) 日本での報道「実業団の帰来」(東京日日新聞)

『東京日日新聞』 第11862号 (1909.12.17) 実業団の帰来 我邦観米実業団の米国に在ること前後三ケ月、其間常に南船北馬、或は工場に或は銀行会社に、臨覧巡閲絶て寧日あることなし、今や全く所期の観察を終へ、本日を以て我邦に帰来せんとす、卿等の一行は…

 1909(明治42)年12月17日(金) 渋沢栄一の演説「巧妙ニシテ、小村外相ノ歓迎演説ノ余リニ簡単冷淡ナルニ対シ、当意即妙、鋭利ニシテ然カモ円満ナル批評ノ如キ」

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 十二月十七日 晴天○上略今日ハ男爵始渡米団一行ハ目出度帰着ノ日取也、人々ハ早天ヨリ横浜ヘ出迎ハレシモ、予ハ寒風ニ曝サルヽノ健康ヲ害スヘキヲ恐レ乍遺憾之ヲ略シ、正午箱車ニ乗シテ商業会議所ニ…

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京商業会議所で歓迎会に続き解団式開催

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 ○渡米団解散式 中野委員長は米国に於ける旅行の概要を報告し、次に青渊先生は解団式告辞を述べられたり、即ち左の如し ○解団式告辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略スいとも森厳に解団式…

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京に移動し、東京商業会議所で帰朝歓迎会。渋沢栄一は宮内省へ参内

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 ○東京の歓迎 △新橋駅の壮観 団員を乗せて恙く入港せる地洋丸の雄姿を横浜に迎へたる家族・親戚・知己の大半は、午前十時四十分発列車に乗り、一行に先じて帰京せるが、十一時半列車新橋に着して改札口を出づる者少…

 1909(明治42)年12月17日(金) 横浜上陸後、横浜商業会議所による歓迎会に出席

『竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41 △横浜商業会議所の歓迎 斯くて午前九時四十分となり、一万三千八百噸の巨船は八戸繋離指揮官の先導により、恙なく岸壁に横附けとなり、万歳の声は雷の如く、余韻海面に轟き渡り、音楽隊の奏する歓迎の曲に和して盛…

 1909(明治42)年12月17日(金) 渡米実業団一行、横浜に上陸 【航海第17日】

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458 ○第一編 第九章 帰航日誌 第三節 船中の下 十二月十七日 (金) 快晴 今暁船は已に東京湾口にあり。天晴れ、気清く、富岳皚々として中天に聳へ、又我等を迎ふるものゝ如し。 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻…

 1909(明治42)年12月17日(金) (69歳) 渋沢栄一を団長とする渡米実業団一行、横浜に帰着 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日栄一、渡米実業団を率ゐて横浜に上陸し、直に東京に入り、宮内省に出頭し、宮内大臣を経て帰朝の旨を奏上す。午後、東京外五商業会議所聯合会主催同団帰朝歓迎式、東京商業会議所に催さる。外務大臣伯爵小村寿太郎・農商務大臣男爵大浦兼武の祝辞に対し…