「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月19日(日) 日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46

    ○青渊先生歓迎会彙報
△日本貿易協会の歓迎会(十九日) 日本貿易協会にては、十二月十九日午後三時より青渊先生並に渡米団一行を招待して歓迎会を開かれたり、来会々員百余名にして、池田副会頭は懇切なる歓迎の辞を述べ、且つ来賓の万歳を唱え、青渊先生は来賓総代として大要左の如き謝辞を述べ、午後四時散会せりといふ
  渡米団一行に対する米国官民の歓迎は未曾有の盛事にして、その懇篤親切なる到底筆紙の尽す所に非ず、斯の如き款待を受けたるは是れ決して団員の力に非ずして、全く国民全体の力なり、一歩を進めて言へば日米の事業関係の然らしむる所にして、事業関係といへば貿易の中心は即ち当日本貿易協会なり、故に先づ吾等の感謝すべきは当日本貿易協会なるに、然るに却て諸君より斯る歓迎を受くるは予等の感謝に堪へざる所なり、旅行談の詳細は他日に譲り、茲には只諸君と密切の関係ある事を一言すべし、今回の旅行は五十三市に亘りしが、何処にても談、貿易関係に及べば、必ず日本は米国に売る事にのみ力め、米国より買ふことの、甚だ少なきを難せざるはなし、依て予は紐育に於て渋沢栄一一己の私宴を開き、米国官民の有力者を招待して予の所見を述べたり、貿易統計表によれば米国に対する輸出一億余万円に対し、同国よりの輸入は八千万円に過ぎざれば、一見貿易は不平均なるに似たり、然れども其物品を調査するに米国の買ふ所のものは多くは日本の粗成品にして、之れに加工し以て自国民の用に供するものにて、米国の利する所甚だ多し、これ日本より言へば米国より買ふて貰ふに非ずして、寧ろ売つて貰ふとも云ふべく、然るに米国民が貿易の不平均を云々するは一応尤もなれども、同時に其利甚だ尠からざることを自覚せざる可らず、徒に既往の事を難ぜんよりは、将来の貿易に付て相互に胸襟を披きて、日米国交の親善を図ると同時に貿易の発展を計らざる可らずと述べたるに、大いに悟る所ありしものゝ如し、諸君に於ては予が紐育に於ける演説を只一場の座興とせらるゝことなく、今後益々日本貿易の発展を謀るに努力せられんことを希望せざるを得ず
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.415-416掲載)


竜門雑誌』 第262号 (1910.03) p.16-17

    ○日米の貿易の関係
                      青渊先生
  本篇は昨年十二月十九日、日本貿易協会歓迎会席上に於ける青渊先生の演説筆記なり
今日は当日本貿易協会より、亜米利加旅行者一同を招待せられたるを一同と共に厚く御礼を申し上げます、今回大平洋沿岸各商業会議所の招待に依り、東西一万哩余の旅程、五十余箇処の都市を経て来ましたから、旅としては誠に大なる旅で、是れが為めに受けたる饗筵なり、見聞なりに至りては、少なくありませぬ、其感想は余の浅き記憶のみを以てしても尚ほ、数日を費しても語り尽すことが出来ませぬ、これ必竟米国の日本に対する厚情に依ることゝ存じます、中に最も其力の多かりしは事業上の関係です、実業家として打揃つて参つたのですから事業を根本として居ますが、貿易に就ては本会が中心となつて、発展の策を講じて居らるゝから、先づ第一に本会に厚く御礼申上ます、今回一行が受けたる厚遇は、本会の諸君が、平素熱誠に貿易事務に御奮励せらるゝ反照です、殊に其始めシヤートルより、帰途桑港まで鉄道の列車を同一のものを以て遇せられし如きは、少しく自尊の様なれども、再び為し得難き旅行なりと信じてゐます、日本と米国とは一葦帯水の国で、向後交際益々頻繁を加ふるに至るは必然である、故に私等のみならず、こゝに集まり居らるゝ御一同の責任は、日一日重きを加ふるに至ります、私等一行が到処米国人より耳にしたる処は、日本商人は一体に自分勝手で、自国の品物を売ることのみに汲々として、米国人の商品を少しも買つて呉れぬと云ふ小言でありましたが、私は其都度説明を与えて惑を解くに勉め、殊に紐育にては渋沢栄一一個人の資格を以て、同市及び其附近の名士を一堂に招ぎ、米国人に向つてかういふ事を申しました、諸君、私の申したことが善いか、御参考迄に茲に申述べて見ませう、米国人は動もすれば日本貿易に対する不平を唱へ、日本人との取引は不利益だ、日本人は売ることにのみ勉め、買ふことに骨を折ら無いと申されまするが、千九百八年に於ける日本の輸出入総額は、九億円にして、内米国との貿易額は二億一千万円であります、此の内日本より米国へ輸出するものは一億三千万円、米国より日本に輸入する高は八千万円にして両者の間に五千万円の差はある、併し日本の輸出品は多く半成品にして、之に加工し精製して売る米国の利益は莫大なるものである、此意味に於て日本は米国に物品を買つて貰うと云ふよりは、寧ろ売て上げて居ると云ふも過言にあらざる様です、これに反して米国より日本への輸入品にあつては、日本は米国の外に、英国・独逸、其の他諸国の非常に奮励せる買主なるに拘らず、比較的売込に冷淡なる米国の製品を、尚且八千万円購求するの一事を以て、日本が米国に対する好意を知る事が出来ませうと述べたることがありました、当協会罷出でゝ諸君の前で斯様な事を申上ぐるは所謂お釈迦様揃ひの真中で説法する様なもので恐れ入りますが、私の説明は極めて平凡なるも、多少は先方に了解を与へた処あると確信します、これ唯一片の議論に止まりまするが、願くは諸君に於て、此の上ともに飽く迄誠実にして、顧客を大切に御心懸けなされまして、貿易事業に努力せられむことを切に望みます、御鄭重なる御饗応に預り喜びのあまり失礼いたしました、終に臨んで、諸君の御健康を祝します。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.421-422掲載)