「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月17日(金) 渡米実業団一行、横浜に上陸 【航海第17日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458

 ○第一編 第九章 帰航日誌
     第三節 船中の下
十二月十七日 (金) 快晴
 今暁船は已に東京湾口にあり。天晴れ、気清く、富岳皚々として中天に聳へ、又我等を迎ふるものゝ如し。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.380掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第一節 上陸
時に十二月十七日午前七時、我地洋丸は横浜に入れり。直ちに検疫官来船、乗船者一同食堂に参集し簡単なる検疫を受け、上陸の準備をなす。此時既に小汽艇を駆りて出迎の為め来船せるもの多数、布哇出帆の時、団長渋沢男より浅野東洋汽船会社社長に懇請せし如く、地洋丸は先例を破つて税関新波止場の桟橋に横付と成れり、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.399掲載)


竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○青渊先生の御帰朝
横浜港十二月十七日の曙は、快晴さながらに拭ふが如く、窮陰師走の空も朝日影麗かに、日米親善の最大光栄を荷へる青渊先生一行の帰朝を迎へぬ
   ○横浜の歓迎
△一行の帰途 是より先き本邦実業家の萃を抜きたる青渊先生の一行が、歓呼の声に送られて横浜の埠頭を辞したるは、実に八月十九日なりき、爾来九月一日シヤトルに於ける歓迎会を始めとし、十一月二十九日桑港に於ける大晩餐会を最終として、前後三箇月間大陸の観光を遂げたる一行は、米国民に尠からさる好感を与へ、延いて近来動もすれば面白からざる徴候を呈すべく訛伝流説の播布される日米の国交に円満敦睦なる連鎖を与へ、ロツキー山の夕、ミスシツピー河の朝、両国の人士が互に握手して親善の好誼を契る間に多大の成功を博し、斯くて十一月三十日桑港を辞し、懐かしき故国の天には向へるなり
△横浜港外の光景 一行を載せたる東洋汽船会社の地洋丸は、途中布哇に寄港したる後、再び錨を捲きて西を指し、一路平安、舟行また予定よりも早く十六日の夜は既に東京湾に入り、十七日昧爽星影漸く薄れて一碧に明くる朝、空の寒さは身に沁むばかりなるも、風凪ぎたる海は一波動かず、港外五六浬を進む頃、海末の紫がかりし横雲の上に朱盆の如き大旭日現はれ、同じき紫雲に裾を消されたる富士山は絵の如く天半に雪白の嶺を見せたり、この朝日影此山影を目前に地洋丸の上に見る一行の歓喜の情や思ひやられぬ、斯くて港外八・九浬の海上にて初めて地洋丸の船影を認むるや
△歓迎船の包囲 斯くと見るより、海上に点々する歓迎船は一斉に万歳を叫びつれて、彼の本船に向つて進航し、漸く数十間の距離に進めば、蜃気楼の如き東洋一の大客船の二階船室外廓に立並ぶ一行の影も明かに見られ、蝶の飛ぶが如く翻々と打振ふ手巾は、我より叫ぶ歓迎の万歳に答ふるなり、忽ちにして本船は四方八方より簇り来る彩旗の船に囲まれつゝ徐々として港内に入り、予定の錨地に就けば、船梯は卸されて先づ検疫官は乗り移れり、僅かに本船と数間の距離に在るランチよりは外廊に立てる一行の誰々なるを識別し得べく、帰旅途上病に罹れりとの報ありし青渊先生の姿の外廊に現はれし時は、覚えず万歳の声挙り、先生もこれに答へて頻りに絹帽を振り、極めて壮健の体に見えしも嬉しく、各歓迎船はいづれも迎へんとする主人公を見出しては其名を呼びて歓呼する状を、物珍らしげに打眺むる外国船客も多く、人形のやうなる愛らしき子供を抱きて、美しく飾られたる歓迎船を指しつゝ何をか子に打語る西洋婦人もありき、検疫始まりしと覚しく、外廊の人影は皆船室内に入り階下室の二等船客は外廊に整列して検疫を受け、其間小一時間を費したるが、上船を待ち兼ねたる歓迎船は犇々と舷梯の下に詰めかけ、人に先んじで上らんとして船員に追ひ下ろさるゝもあり、山の如く満載されたる歓迎人は船より船に伝ひて本船に接近せんとするあり、その危険云ふべからず、本船々員は飽くまで上船を防ぎて時間を費し、漸く許可が下るや各船の人何れも先を争ふて上らんとし、舷梯の混雑危険甚だしく、小蒸汽船は一方に傾きて舷危く水に入らんとするの有様にて、僅に一部分の人のみ上船し得たるに過ぎず
五十余人の一行を彼処此処に捉へて談話を聞かんとする新聞記者、無事の安着を賀する知人など、船内は右往左往、先生を初め一行は一方にて祝辞を雨と浴び、一方には記者の手帳鉛筆責に忙殺さるゝ有様なりしも、三箇月の海外修業に馴れ切つたるものにて、欣々として愉色に満たされつゝ忙中に要を語り、其交際振り渡米前のその人に比べて水際立て見られたりき
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.396-397掲載)