「渡米実業団」日録

情報資源センター・ブログ別館

 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月17日(金) 日本での報道「実業団の帰来」(東京日日新聞)

東京日日新聞』 第11862号 (1909.12.17)

    実業団の帰来
我邦観米実業団の米国に在ること前後三ケ月、其間常に南船北馬、或は工場に或は銀行会社に、臨覧巡閲絶て寧日あることなし、今や全く所期の観察を終へ、本日を以て我邦に帰来せんとす、卿等の一行は実に我邦実業家の粋を抜きしものにして、此行唯に日米両国間商工業の連鎖発展に多大の効果あるべき而已ならず、排日問題以来、動もすれば日米の国交幾分の障礙を来さんとするの傾向ありし状勢を打破し、之を寛和氷解せしめしの効験も亦尠なからずとす、吾曹は米国当局者の優待歓迎到らざる所なき好意に対し、甚大の謝意を表すると同時に卿等一行の能く我邦実業家の代表として、内外国威国福の発揚に勉めしを謝せずんばあらず。
卿等が米国の商工業を視察し、物質的文明の昌大なるを実験し、新興の国其元気の横溢する所を看破し、此間に於て卿等の感得せし所蓋し多大なるものある可し、一会社一工場の経営組織方法に関し、詳密なる智識を有する者夫れ或は是れあらん、然れども合衆国実業界の全体に渉り能く其大局の智識を有する者、蓋し卿等に優る者あるなく、爾来我邦の対米実業策を講ずるや、卿等を措て復た他に信頼する所ある可からず、個人の視察、官憲の報告多くは是れ素人の調製に懸り、卿等の如き斯道専門の士の観察獲得せし結果に比すべきに非らざるや勿論なり、此回の行、卿等の中、或は以て一時の御祭騒ぎに過ぎずと為す者あるや保す可からずと雖も、国家の卿等に待つ所頗る深厚なるものあるを知らざる可からず。
従来使命を帯びて閽外に出でし者、官民共に其人に乏しからず、其閽外に在るや、鋭意焦心、以て使命に負かざらんとするの気慨に富むといへども、其任満ち命果つるに当てや、当年の気慨全く銷散し、殆んど一時風雲の去来するに異ならざるの感ある者多し、国家の不利蓋し容易ならずとす、若し夫れ閽外の任、単に一時の献替に過ぎずんば、任満ち命果つるに臨み、気慨銷散、風雲去来するも夫れ或は可ならん然れども使命の永久に渉り、長へに国運の伸縮に関する者に至つては須らく常に当時の気慨を有し、以て国家の負託に背かざらんことを期せざる可からず、事は一時の復命を以て足れりとするものに非ざるなり。
撰ばれて卿等の米国に赴くや、国家の卿等に待つ所既に深厚にして、其獲得せし智識多大なるものあるべきや必せり、対米の商策も多く卿等の智識に待ち、日清貿易の発展も亦卿等に頼て重きを為さんとす、吾曹今直に卿等に向ひ、其獲得せし感想を聴かんと欲する者に非ず、然れども行李解け旅情癒ゆるの後、須らく其感想を公表せんことを望む、国家の卿等に期待する処既に斯の如し、卿等の之に酬ゆるの道唯二ある而已、一は其獲得せし感想を公表して官民の施設に資し、一は閽外当時の気慨を失はず、永く之を持続し、以て国家の負託に背かざるにあり。
由来日本人の常習として、内に強く外に弱く、公衆に対し其感想を披瀝するが如き場合に臨み、頗る怯懦なる者多し、謙譲自遜、徳は乃ち徳たりといへども、機に臨んで怯なるは男子の事に非らざる也、感想の優劣豈吾曹の問ふ所ならんや、帰来黙々として聞ゆるなくんば、卿等遂に国家の負託に背き、閽外の任を空うし、風雲去来の誹を受くるに止まる、卿等夫れ之を諒せよ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.410-412掲載)