「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京に移動し、東京商業会議所で帰朝歓迎会。渋沢栄一は宮内省へ参内

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○東京の歓迎
△新橋駅の壮観 団員を乗せて恙く入港せる地洋丸の雄姿を横浜に迎へたる家族・親戚・知己の大半は、午前十時四十分発列車に乗り、一行に先じて帰京せるが、十一時半列車新橋に着して改札口を出づる者少く、概ねプラツトホームに群集して臨時列車の到るを待つなりき、又新橋停車場内外は歓迎者の為めに宛ら蟻塔を崩せしが如くに、見渡す限り人を以て埋められ、停車場前広場には中央僅かに行路を剰したる外、市内各区各商店より出迎へたる人々の手に手に捧げし町旗・店旗は、其の色紫緑紅白のとりどりなる、何れ小春を偲ぶ初冬の風に翻へり、勇ましくも賑かなり、何々様御出迎へ、誰々様御出迎へと記せる白地の長旗、亦た打続きて地上を彩り、仰げば蜘蛛手に渡せる万国旗亦美しく中空を飾りぬ、空は晴れて一碧秋天の如く、地は凱旋軍を迎ふる如く立錐の所もあらず、胸に赤章を附けたる係員馳駆して群集の間に斡旋し、フロツクコートの紳士プラツトホームに充満し、又多数の婦人の流行の粋を集めて屯集せるは、恰も此処に東都の富と流行を併せ観るが如く、剣光帽影の燦爛たるに馴れし新橋停車場は、記録を破りて珍しき歓迎者に充てり
午前十一時五十分、臨時列車着するや、先きを争ひて車窓に家父兄弟知己を吟味し廻る人々、誠に肩摩轂撃の光景を呈し、其の互に見当りたるは嬉々として握手し、感極りては遽かに挨拶の言葉さへ出でざるもあり、歓迎者中最も多くの人の求めらるゝ青渊先生は、歓迎の人波にもまれて容易に其姿見え申さず、斯くて正午を過ぐる十分、漸くにして一行は車寄に出で、一行の分乗せる馬車は日米両国旗を車頭に交叉し、二葉町河岸を右折日吉町に入り、数寄屋橋を渡りて東京商業会議所に到れる、此間煙花空に響きて勇ましく、歓呼沿道に鳴りて、壮観いはん方なかりき
△青渊先生の参内 団長青渊先生は新橋に着するや、単身自動車を駆りて市民歓呼声裡に参内し、侍従長を経て渡米団一同を代表して天機を奉伺し、併せて帰朝の御挨拶を言上し、即刻退出して東京商業会議所の歓迎式場に臨まれたり
△東京商業会議所の歓迎 車馬絡如として、殿堂風の歓迎門を設けたる商業会議所は、小村外相・大浦農相を始め、朝野の紳縉を以て充たさるゝに至れり、号砲一発、実業団の帰着を報ずるや、参着の歓迎者益々繁く、頓て参内を済せし青渊先生は馬車を駆つて来著し、間もなく一同参着せり、長途の行程にも拘らず各自の元気頗る旺盛にて、無事を祝せる握手は其処此処に行はる、別室にて休憩するも少時、一同階下に降り立ちて各実業団体の歓迎を謝し、此等の団体は紅旗紫幟を打ちふり、星野氏の発声に団員万歳を三唱し、次で歓迎の式を開かる式場は会議室を以て之に充つ、嚠喨たる奏楽裡に一同着席し、東京・京都・大阪・名古屋・横浜・神戸の六会議所を代表して、大橋新太郎氏左の歓迎の辞を朗読す
  ○「歓迎の辞」ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で小村外相登壇し述べて曰く
  ○後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で大浦農相登壇述べて曰く
  ○後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で松尾日銀総裁は、一行の無事帰朝せられたることを祝すると共に一行が日米親交の上に致せる効績を感謝し、星野錫氏又聯合実業組合を代表して歓迎の辞を述べ、終て先生は一行を代表して答辞を述べて曰く
  ○栄一ノ答辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
之にて歓迎式を終り、更に解団式に移れり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.398-399掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第二節 歓迎式
午前十一時十分特別列車にて横浜を発し、東京に向ふ。新橋停車場の歓迎亦盛んなり。而して一行は差廻されたる馬車にて東京商業会議所に達し、東京外五会議所聯合の歓迎式は、同商業会議所内に於て開かる。渋沢男は団を代表して、直ちに宮内省に出頭、宮内大臣を経て無事帰朝の旨闕下に奏上せり。式は午後零時三十分を以て始まり、大橋新太郎氏委員総代として、先づ歓迎辞を述ぶ、小村外相・大浦農相・松尾日本銀行総裁・星野東京実業組合聯合会長等の祝辞、渋沢渡米実業団長の答辞を以て、午後一時半終了せり。
     東京商業会議所副会頭大橋新太郎君歓迎之辞
東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の六商業会議所は、本日我渡米実業団員各位の帰朝を迎へて、茲に謹んで歓迎の式を挙ぐ。
回顧すれば昨秋、我商業会議所の米国太平洋沿岸に於ける実業家を招請して、握手交驩其の誠を尽すや、米国商業会議所は本年に至り更に我実業家を招致して相互の親交を温め、通商の増進に資せんとせり。茲に於てか我等商業会議所は、特に各位に請うて親しく米国の各市を訪問し、是れが懇儀に応へられんことを以てせり。爾来四閲月、各位の熱誠にして勤勉なる、全米国五十有余の都市を歴訪して我赤誠を披瀝し、交驩尽さゞるなく、修好及ばさるなし、蓋し米国に於て各位を迎ふるに空前の盛儀を以てしたるもの、亦故ありと謂ふ可し。而して斯の如くにして、爰に日米実業上の城府を撤去し以て、彼我実益交換の発達を増大し、延いて実業の鎖鑰を緊密にして、以て国交の親善を助長するを得べきなり。是れ実に我等の各位に深く感謝の意を表する所なり。思ふに各位の米国に在るや、風俗習慣の異、風土季候の変、或は各位の健康を害し、或は各位の精神を労したるものあらん。是れ我等本土に在るものゝ、日夕憂慮措く能はざる所なりし。然かも各位の勇壮なる、急激多忙なる大旅行を継続して、更に何等の異常なく、所期の目的を遂行して、今日愉快なる帰朝を見るに至る。是れ実に我等の欣喜措く能はざる所なり。
我等六商業会議所は、茲に重ねて感謝と満足の誠意を表し、謹んで各位の健康なる帰朝を歓迎す。
   明治四十二年十二月十七日
     外務大臣伯爵小村寿太郎君祝辞
閣下、諸君、今日此盛大なる歓迎に参列するを得ましたのは、誠に光栄と致す所でございます。渡米実業団の諸君が熱心に尽すべきを尽され、予定の目的を達せられて、今回無事帰朝になりましたのは誠に欣喜に堪へぬ次第でございます。
茲に諸君の御成功を祝し、併せて御健康を祈ります。
     農商務大臣男爵大浦兼武君祝辞
閣下、諸君、本日は渋沢男爵其他諸君が米国より御帰朝になりまして、斯の如き盛大なる歓迎の席に臨みますのは、最も光栄とする所でございます。我国の最も有力なる声望ある所の諸君が、米国の招請に応じて我国の商工業者を代表して、殆ど四ケ月の御苦労になりましたことは、之を国家の為めに祝すると同時に、最も私の喜ぶ所でございます。此間に於て米国の官民の非常なる歓迎を受けられまして、至る所彼の国の紳士紳商と談話を交へ、最も意志の疎通を計られたと云ふことに於ては、我国の太平洋上に於ける貿易の発展上頗る有益なることゝ感じます。而して各市の諸工場、其他実業上に関する所の、最も嶄新なる施設を御見聞になりましたに付きましては、将来我国の為めに其嶄新なる所を以て、我国の商工業貿易上の発展に貢献せられんことを、偏に切望致します。今日は渋沢男爵其他の芳顔に接しまして、茲に祝意を表し一言申上げます。
     日本銀行総裁男爵松尾臣善君祝辞
渡米実業家各位
各位曩きに北米合衆国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ、我実業界の各方面を代表して同国へ渡航せられ、今や海陸長途の旅程を終へて無事帰朝せらる。各位の米国を巡歴せらるゝこと約四ケ月、到る処に非常の款待を受けて、足跡を重要の都市に普くし、或は交驩応酬に或は視察研究に、一の寧日なかりし盛況は、余等の夙に伝知せる所なり。各位今次の壮遊は彼を知ると同時に、彼をして我を知らしめ、日米両国民公私の交誼をして、益々親善ならしむるの効、既に甚だ顕著なるものあり。聞く米国人士は各位を目するに実業界の特派大使を以てせりと、余等の各位に期したる所亦此に外ならず而して各位は遺憾なく其使命を遂行せられたるものなり。各位の旅程は今日を以て終ると雖、其効果は決して今日を以て尽くべきにあらず。米国は我善隣の友邦にして、且つ貿易上の好華客たり、其経済上の施設に至ては、取て以て参考に資すべきもの頗る多し。左れば各位の渡米によりて結ばれたる諸種の関係は、今後我国民を裨益し、殊に我経済上の発達を助長すること極めて大なるものあるを疑はず。茲に各位の帰朝を迎ふるに当り、各位の成功を祝し、我実業界の為めに尽されたるの労を謝するは、余の光栄とする所なり。
     東京実業組合聯合会々長星野錫君祝辞
国際通商条約は、相互国民の相知り相信じ、其情誼の歓密に基かざるべからざるや言ふを竢たず。我邦の米国に於ける、其交誼の親密にして情意の歓洽せる、日や已に久し。曩には我商業会議所の招請に応じ、彼地実業団の来りて我邦に観光するあり、嗣で我重立ちたる商業会議所の代表者諸君は、彼地実業団の招待に依り、遠く彼地に渡航せられ、彼我両国民の相知り相信ずるの道に於て、亦遺憾なからしめんとす。諸君の任務たる実に重且大なるものありき、而して諸君巡遊の際各地到る処熱心な歓迎を受けられ、其余声は我邦に反響し、既に已に諸君の成功を発揚するに足るものあり。吾実業界の幸慶何者か之に加へん、今や光彩ある諸君が平安無事なる帰朝を迎ふるに当り、諸君が彼地に於て実際に親睹目撃せられたる実業経営の方法、通商取引の状況等、吾人が鶴首翹望して教を請はんと欲する処の者一・二に止まらずと雖ども、特に茲に両国民の間に於ける歓密の情誼を敦うし、以て将来通商上の福利を増進せられたる、無形の賜の至大なる者あるを颺言して、衷心より其労を謝し、併せて其健康を祝す。之を歓迎の辞となす。
   明治四十二年十二月十七日
     渡米実業団長男爵渋沢栄一君答辞
閣下並に来賓諸君、久々で斯く御打揃ひの皆様に拝眉を致しますのは、第一に一身に取つて此上もない愉快でございます。而して斯かる御席に私が団員を代表致して、茲に受けた歓迎の御答辞を致しますのは、光栄此上もございませぬ。
今般の旅行に付きましては、既に業に新聞で至る所の模様を御報道も致してございまする、で繰返して各地の有様を陳情するは、頗る繁雑に渉つて、寧ろ効能がなからうと思ひますが、大体に約めて申しますると、私共……団員中総てとは申しませぬけれども、不肖ながら団長の任務を持ちました私が、不肖も顧みず斯かる任務を持つて四ケ月の旅行を致しましたのは、実に恐懼に堪へぬのでございます。而して其旅行が誠に都合宜く、各地に於て満足な歓迎を受け、情意も十分交換し得られたと思ふのは、蓋し是は予想の外と申す他はございませぬ。是は全く団員の自身の力で為したとはどうしても思はれませぬ、国家の効能が我々の団員に影響したものと思ふ他ございませぬのであります。
果して斯く解釈致しますれば、寧ろ我々が此臨場の諸君に謝辞を申し、臨場の諸君を歓迎せなくてはならぬので、歓迎を受けるは頗る恐縮の至りでございますけれども、身其衝に当りましたに付て、茲に斯かる盛大の歓迎を受けまするは、又以て望外の仕合と申上げなければならぬのでございます。
航海中を除きまして「シアトル」に到着以後、桑港に帰りますまでが丁度九十日、廻りました場所が五十三ケ所、至る所に随分丁寧なる御饗応を受け、一面には親しく事物を見、又演説も頗る沢山伺ひました。故に今日斯の如き皆様御打揃ひの演説が、平生であつたら長きを厭ふのでございませうが、亜米利加から帰つた考から見るともう少し御長くやつて下さつたら、更に聞栄えがあるやうに感じて外務大臣の御演説などは、余り御少ないに失しはしないか、亜米利加風からは寧ろ無さ過ぎると申上げたい位でございます。併し之に引換へて私が長いことを申すと云ふと、御馳走より御返礼が余り多過ぎますから、成る丈私も極短く致して御礼を済すやうに致しませうと思ひますが、唯我々が此巡廻を致しましたに付て、一つの守本尊がございます。此守本尊だけは出立の際に、芝の離宮で申上げて置きましたが、それは愛国の情を以て、始終奉公の念で尽さうと云ふのが団員一同の祈念でございます。此団員一同の祈念が、或場合には種々なる風も吹き、雨も降り、少々づゝは物議が起きぬでもなかつたかも知れませぬ。それは私の耳までには入りませぬけれどもありつらんと想像する。併し其風雨は総て今の愛国の情と云ふものが強いために、皆鎮圧して、為めに一同が誠に無事に、又身体も健康に今日帰着をして、斯の如き盛大なる歓迎を蒙ることを得た次第でございます。又各地に廻りまして、米国の凡ての方面の方々と会し、且つ談話すると云ふことに付ては、何を主義と致したかと云ふと、唯誠を以て接遇するだけでございます。我々は智恵もございませぬ、学問もない経歴も甚だ少ない。斯かる身体を以て唯一生懸命に、是誠是一、之を以て仮令百万の敵でも、一身万人に敵すると云ふことを主義として接遇するが宜からうと云ふのが、是が団員の堅く守つた方針であつたのでございます。蓋し此方針は、先づ前後貫徹致したと申上げて間違ひはなからうと思ふのであります。
此を以て赫々たる効能はございませぬけれども、幸に過失なく、先づ日本の状態を至る所に十分に吹聴し、又彼の事物若くは人物に接遇する毎に稍々其真相を知り得たと申上げるに躊躇致さぬのでございまする。でそれ等に付て唯此一場に申尽すことは出来ませぬから追々亜米利加の美点は此所である、亜米利加の希望は斯く斯くである、是から先きは斯くありたいと云ふことは、機に触れ物に付て、銘々愚見を申上げ得る機会があらうと思ひまするので、今日は歓迎の御席で申すは尚早しと申上げたうございます。私は茲に右等のことを綜合致して、甚だ拙作でございますけれども、一の詩を朗読致して、諸君の清聴を涜します。極く拙劣な詩でございますから、斯かる御多数の前に申述べるは、余程恥うございますけれども、今申述べたる精神が此一詩に含んで居ると思ひまするで、文字の拙劣をば御笑ひ下さるとも、精神だけはどうぞ御採用を願ひたいと思ふのであります。
  舟車二十一千里 路似聯珠縈作環
  到処只聞邦土富 一誠酬得万情還
斯う云ふ拙作を以て、旅行の精神と自信したのでございます。想返すと丁度船と陸で行程が四ケ月でございます、此四ケ月の間に、船を除きまして、三ケ月に五十三ケ所の巡廻と云ふことは、丁度浦島の子が竜宮に行つたやうな有様で、四ケ月が四年であるか、四十年であるか、将た四百年であるが如き、歳月を感ずるやうでございます。若し文明の利器が斯の如く整うて居らなんだならば、迚も斯かる大旅行が、四ケ月の間に出来まいと思ふと、昔の浦島を唯一の夢物語とせぬでも宜いが如くに感じるのでございます。但し浦島の子は、銘々一つ宛の玉手箱を持つて帰つたらうと思ひますが、私も団員も皆此玉手箱を今日は明けませぬ。何故明けぬかと云ふならば、之を明けると直ぐ白髪になる、そこで此玉手箱を始終仕舞つて置いて、或場合に少しづゝ明けやうと考へます、どうぞそう御承知を願ひます。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.400-404掲載)