「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月24日(金) 米友協会主催歓迎会

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46

    ○青渊先生歓迎会彙報
△米友協会歓迎会(廿四日) 米友協会にては、二十四日午後六時より日本橋倶楽部に於て青渊先生一行を招待して歓迎の宴を張れり、主客約五十名、宴将さに終らんとする頃、会頭金子男の祝辞並に挨拶あり青渊先生は徐に起ちて先づ当夜の懇切なる招待を謝し、次で大要左の如き演説を為したり
  今回の旅行に就ては、日本人と米人とを問はず、皆其結果の空しく無用に終らざらんことを望まざるものなし、余は米国の事情に最も精通せる当協会の如きものに対しては、仮令今晩の御招待なくとも自ら進んで些か所感を披瀝し、以て諸君の高教を仰がんほどに考へ居たるなり、只会頭の所謂、岩倉大使に擬せられたる余等は、果して斯くの如き重任を負担し得るや否や、是れ窃に危まんと欲するも能はざる所なり、然かも翻て考ふれば此重任は広く実業家全体の担ふ可きもの、願くは相提携して今回の旅行の空しく無効に帰し終らざらんことを、却説今回の行は到る処至大の歓迎を受け、現に知事の接待委員となれる処さへ之なきに非ず、然も之は日本全体の名誉が余等に報ひ来りたるもの、豈に単り余等一行の私す可きものならんや、之を要するに米人は我五十年の進歩を見て太く之に感じたるものと見る可く、然かも之か為めに将来は共に相競ふて商工界に奮闘せんとするの意志の自ら仄見えざるに非ず、之に対しては宜しく将来の我商工業の方針を討究するの必要ある可し、尚ほ終りに一行がブルツクリンにタウゼンド・ハリス、ニユーポートにペリーの墓を展したるは、些か当協会に対するお土産と云ふ可きか云々
次で中野武営君其他の演説あり、散会したるは午後十時過なりといふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.418掲載)