「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月18日(土) 日本での報道「渡米団帰る」(東京日日新聞)

東京日日新聞』 第11863号 (1909.12.18)

    ○渡米団帰る
  米国聯合実業団の招待に応じ、我国実業家を代表して過る八月十九日横浜解纜のミネソタ号にて其の途に上りたる渡米実業団の一行四十九名は、爾後四ケ月に亘りて具に米国の産業其の他の視察を了へ海上無事、十七日午前七時卅分横浜入港の地洋丸にて目出度帰朝したり
      △払暁の埠頭
十七日朝天未だ明けざるに、横浜市内の街街は夥しき群衆を以て満され、群衆は相争ふて埠頭に走れり、是れ我が渡米実業団を乗せたる汽船地洋丸を迎へんとするなり
○中略
      △海を圧する巨船
○中略 朝霧漸く薄からんとする遥るか彼方に一点の黒影は、実に我が渡米実業団を乗せたる地洋丸なり、歓迎の群衆は一時に動揺き初めたり黒影は次第に太りて軈て船影を認め、数分にして忽ち巍峨たる巨艦は一行の目睫に迫れり、水面を抜く数十尺、三層に重畳する甲板を戴きて、威容堂々たる巨船地洋丸は海波を圧して迫り来る、群衆の歓呼は万雷の轟くが如く、万山の崩るゝが如く、静かなる波上を渡つて港内の大気を振撼せり
      △歓迎者地洋丸に上る
○中略 八時半検疫終りタラツプは降れり、何の猶予あるべき、待ち佗びたる歓迎者一千余は鯨波を挙げて甲板を襲へり
      △一行上陸す
先を争つてタラツプを攀上れる歓迎の群衆は、甲板上に又争つて一行の室を尋ね所在を探ね、叩頭するものあり、握手するものあり、祝詞を述ぶるものあり、忽ちにしてさしもに広き船内もシルクハツト黒紋附にて満され、其の光景は宛として戦場の功名を争ふが如し、既にして巨船地洋丸は税関六号上屋前の岩壁に向つて再び徐々進行を起したり、然れど歓迎に狂奔せる群衆は我が乗れる船の進行せるをさへ知らず、殊に渋沢団長の如きは船中赤痢に罹れりとの報を得たることゝて其の健康を気遣ふ群衆の男を囲むもの蟻の甘きに集るが如く、為めに男は一歩も身動きならざる有様にて、夫人亦歓迎者の名刺を受くるに急はしく ○中略 斯くして我が実業団は一百二十余日にして再び本国の土を踏めり
      △埠頭の歓迎式
        △通弁のない演説が愉快
一行下船するや、軈て渋沢男を先頭として楽隊の吹奏する音楽に威風勇ましく第六号上屋に少憩し、同屋内に設けられたる式場に入るや、横浜商業会議所来栖副会頭左の歓迎文を朗読す○中略
終つて渋沢男は一行を代表して答辞を述べて曰く
  紳士及び淑女諸君、一同無事帰国するを得て、茲に横浜市の熱誠なる歓迎を受くるは、一同の光栄とする所にて、私より一同を代表して厚く謝意を表す、曩に渡米の途に着きしより、通訳なくして演説をなすは今日を以て初とし、頗る愉快を覚ゆる次第なり、今回渡米の目的とせし所は極めて重大なりしも、良く其目的を達し任を終へて帰朝するを得たるは、諸君の後援に俟つ所大なりと信ず、云々
右終りて直に式を閉じ、一同は馬車又は腕車を藉りて直に停事場へ向へり
      △埠頭より新橋へ
税関上屋に於ける式終るや、一行と歓迎者とは相入り乱れて人車を駆り、馬車を駛らし蜒々列をなして横浜ステーシヨンへ向ふ○中略軈て予定の特別列車出発時午前十一時十分となれば、一行は歓迎者と共に同列車に乗り組み列車は麗かなる冬の日を浴びて矢の如く馳せ、十一時五十三分新橋に着し、此処に一行は紐育の地を踏みたる靴にて再たび帝都の土地を踏めり
      △新橋停車場の混雑
        △日米折衷の挨拶
        △渋沢夫妻は十重二十重
停車場前の広場には、前日より四ケ所の天幕を張り、歓迎人名刺受付所は、十時頃より各実業組合代表者を初め続々歓迎者来集○中略軈て一行を乗せたる一・二等ボギー車七輛を連結せる特別列車の徐々と第二番線に入り来るや、待ちに待ちたる是等歓迎人は潮の如くプラツトホームに押し寄せ、一行が横浜迄出迎へたる家族其他と共に降車するやお目出たうお目出たうと一々握手と叩頭の日米折衷式の挨拶をなし、殊に渋沢団長・同夫人は十重二十重に取囲まれ、渋沢を潰しては困ると愛嬌笑ひをなしながら一々握手しつゝ、村田中将と共にプラツトホームを出で、他の団員等も各新聞社其他より出張せる写真師等が一斉にカメラを向けるや、イヤー又写真攻めかと頭をかき乍ら、万歳の声溢るゝ許りの中を渋沢男は車寄せに差し廻されたる自動車にて、直ちに宮中に参内し、爾余の一行は馬車或は自動車に分乗し、沿道の歓迎者に元気宜く会釈しつゝ、音楽隊を先頭にして土橋を渡り、八官町通りを数寄屋橋に出で、数千人の歓呼声裡に予定の如く商業会議所の歓迎式場に向ひたり○中略
      △会議所歓迎会
一行は午後零時三十分、東京商業会議所に到着す、是より先き小村外相・大浦農相・安広法制局長官、仲小路・石井・押川各次官、阪谷前蔵相・穂積博士(陳重)、萩原・倉知・大久保・真野の各局長、松尾・高橋日銀正副総裁、山本・志村勧銀正副総裁、大倉喜八郎・早川千吉郎・近藤廉平・加藤正義・池田謙三・佐々木勇之助・村井吉兵衛・千家尊福男・阿部知事・尾崎市長の諸氏、其他朝野の紳士、同会議所会員等数百名来会して一行を待受けたり○中略
会議所副会頭大橋新太郎氏は、全国六商業会議所の歓迎文を朗読し、次いで小村外務大臣 ○中略 大浦農商務大臣 ○中略 松尾日銀総裁及び東京実業団体総代星野錫氏の祝辞あり、畢つて
      △渋沢男の謝辞
渋沢男爵は拍手喝采に迎へられて登壇し、今日此盛大なる歓迎会に臨むことを得たるは、一行に取りては無上の喜悦無上の光栄とする所なり、渡米中の概況は既に新聞紙に依りて伝へられたれば、今更ら茲に縷述するの必要なきを以て、唯大体に就て述べんに、余が団長としての任務は実に重大にして、恐懼に堪えざる次第なりしが、幸ひ九十日間、大小五十三の都市に於て到る処望外の歓迎を受けたるは、団員自身の力にあらず、全く国家の力なりと信ず、諸君に対して厚く之れを謝すべきが当然なるに、斯る歓迎を受るは恐縮の至りにて、望外の幸福なり、今回の旅行は到る処事物を観察して、饗応を受け、演説を聞き殆んど忙殺せられたりしが故に、只今来賓諸君の御演説が米国流儀でなさ過ぎ、余りに簡単なりしやの憾みあり、其は兎に角お陰にて此任務を全ふするを得たるは、一行の深く欣幸とする所なり云々、右にて歓迎の式を了り、引続き
      △渡米団解散式
を行ひ、中野武営氏は旅行中の経過の大要を報告し、畢つて渋沢団長は、我々一行が幸ひに今回の任務を全ふするを得たるは、全く守本尊ありしが為めにして、即ち愛国の情と奉公の誠を守本尊とし、唯誠意誠心を以て米国人に接したるが為めなり、今日以後諸君は各々其齎す所を以て、専ら我商工業の為め貢献せられんことを希望す、畢つて中野武営氏は団員の決議を以て、渋沢団長に対し慰労と感謝の辞を呈し茲に全く式を終り、夫より食堂に於て立食の饗応あり、斯くて各自退散せしは二時半過る頃なりし
        ――――――――――
      甲板上の夫人連
港外で地洋丸乗組員の検疫が済むと、群集に混つて押しつ押されつタラツプを攀ぢ上つた記者は、先づ直に団長渋沢男爵の室を訪ふた痢病に罹つて軽くはあつたが、大分悩まされたと聞いた男爵は、左したる様子もなく、フロツクコート豊かに船室の中央に立ち、例の愛嬌ある微笑を満面に湛えて包囲する客に挨拶して居るその傍らに渋沢男爵夫人は薄小豆色御召地裾模様の重ねに、焦げ茶色繻珍の帯を締め、白綸子の襟には、一見目眩ゆきばかりの野菊の花弁に形どれる金剛石ダイヤモンド入りの襟止ブローチを輝かし、少しく面やつれたる形にて記者を迎へて男爵の病状を語られた
「極く軽い大腸炎だつたのですが、赤痢のやうに伝はつて居ましたとかで、大分皆様に御心配をかけましたが、苦しみましたのは二・三日でした、まだ全然快方ではありませんが、大した事も御座いません、妾ですか、妾はもう船には酔はない方ですから、此二・三日大さう海が荒れまして皆様お弱りの方も御座いましたが、妾は幸と別段の事も御座いませんでした、向ふに居ります中は、もう歓迎つゞきでして、勝手な申分ですが実は少々弱りました位でした、それに夫人連と男子方とは大変人員の差がありますので、夫人連は夫人連だけで呼ばれました事が多う御座いました、何しろ国が第一に大きいし、見るもの聞くもの皆大きいのに驚きつゞけに驚いて参りました、何しろ此処では精しいお話をする訳にも参りませんが、向ふの急がしさも丁度この通りでして、夜は晩くなり朝は早いので睡眠が足りませんものですから歓迎場に行く自動車の中で眠つたことなどもありました」
と語らるゝ時訪問客の包囲が愈よ甚くなつたので、記者は去つて ○中略
        ――――――――――
      ○渡米みやげ 汽車同乗雑感
△渋沢男車中吟
  『三尺窓欞六尺棚。文房臥床一家軽。
   半宵破夢殷雷響。知之汽車発駅声』
        ――――――――――
    ○渡米中の感想
      △汽車中の談話
横浜港外朔風凜烈、寒気骨に沁まん許りなるを冒して、一行の無恙を祝せむものと心急がれつゝ漸く地洋丸に達したるに、図らずしも乗船禁止の命は下りて、空しくランチに取遺され、やうやうに十一時十五分特別列車にて恙なき一行諸氏の笑顔に接するを得たり、かくて旧友知己等の無事を祝する歓声湧くが如くなる裡に、万里遠征の労を忘れたるものゝ如く打喜びつゝ
△渋沢男は語つて曰く、山海幾万里、数ケ月の日子を費して南船北馬殆んど寧処に暇あらず、偏へに米国産業の視察をなし、日として又行くとして、米人の熱心なる歓迎を受けざるなかりしは、予の意外とする所にして、実に感謝に堪へざる也、米人は気風快活、良く親しみ善く馴れ易き国民なり、予等一行の往訪と交驩とが将来両国間の国交に幾分の影響を及ぼし、益々親善を加ふるに至らば望外の僥倖とする所なり云々 ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.412-415掲載)