1909-06-01から1ヶ月間の記事一覧
八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 六月三十日 晴夕ヨリ雨○上略 夕兜町ニテ同族会開催 ○中略 男爵渡米決定ノ旨報告、又予随行ノ事モ改メテ申渡サル (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.40-41掲載)
『竜門雑誌』 第254号 (1909.07) p.22-27 青渊先生の二大決断 左の一篇は、六月二十四日竜門社評議員会に於て、青渊先生が実業界勇退と渡米の二事に就て、同社員に告白したる演説筆記なり○中略○男爵の渡米と国際関係 それから更に一つ申上るのは、昨年亜米…
八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 六月二十三日 曇雨朝出勤ス、此度五商業会議所ニ対シ米国太平洋沿岸商業会所ヨリノ招待アリタルニツイテ、渡米者人選容易ニ定マラズ、一昨廿一日市内重ナル実業家ガ帝国ホテルニ会シテ、男爵諸会社引…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 右 [5月10日着の招待状] に対し、東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所は、左の通り回答して承諾の意を表したり。 以書翰致啓上候、陳者東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所の会頭た…
是より先、アメリカ合衆国シアトル、スポカン、タコーマ、ポートランドの四商業会議所、前年東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所が其代表者を招待せし懇遇に酬いんが為め、右五商業会議所に対し、其代表者三十名をアメリカ合衆国に招待して友情を温…
『中外商業新報』 第8313号 (1909.06.20) ○渋沢男と渡米 赤毛布師団は斥くべし 米国商業会議所の招待に応ずべき渡米の実業家は、今や正しく選定中なり、茲に於てか最も注目すべきは渋沢男の進退也、固より男をして之に応ぜしめん事は、朝野の希望に依り、…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 右 [6月11日着の公文] に対し小村外務大臣は、六月十八日附を以て、在本邦米国大使に対し左の公文を寄せたり。 以書簡啓上致候、陳者帝国商業会議所代表者が、貴国商業会議所の招待に応じたるに付、…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月十一日に至り、在本邦米国大使トーマス・ジェー・オブライアン氏は同日附を以て、外務大臣小村伯へ宛て左の公文を寄せたり。 以書簡致啓上候、陳者本使は合衆国政府が、日本の商業会議所を代表す…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] [シアトル在住田中領事の電報は] 六月十一日には、米国側に於ける接待準備著々進行せる旨を報じ、更に我実業家は、米国内到る所にて十分の歓迎を受け、各種の便利を与へらるべきこと、最早疑ふの余地…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 我一行渡米の期近づくにより、米国側にては着々準備を進行し、太平洋沿岸聯合商業会議所特別委員会を、一九〇九年六月九日、華州シヤトル市に於て開会せり。出席者左の如し。 桑港商業会議所代表者 …
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月八日、田中領事の電報は、米国側に於ては我実業家の一行が、成るべく米国々旗の下に太平洋を横断するを望み、即ち八月十九日横浜出帆、九月二日シヤトル着の汽船ミネソタ号に搭乗せんことを希望…
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月五日着在桑港永井領事より小村外務大臣宛ての電報に曰く 『桑港商業会議所其他加州の諸商業会議所は、米国政府の斡旋に因り、太平洋西北沿岸四商業会議所と聯合し、「太平洋聯合商業会議所」の名…