「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京商業会議所で歓迎会に続き解団式開催

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○渡米団解散式
中野委員長は米国に於ける旅行の概要を報告し、次に青渊先生は解団式告辞を述べられたり、即ち左の如し
  ○解団式告辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス
いとも森厳に解団式を行はれ、午後二時半拍手喝采裡に芽出たく散会を告げたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.399掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第三節 解団式
前項歓迎式に次ぎ、直に解団式を挙げ、中野委員長の報告及団長に対する謝辞、渋沢団長の告辞を以て終れり。
     解団式報告       委員長中野武営
我が実業団は明治四十二年八月十九日を以て本邦を発し、同十二月十七日を以て横浜に帰著せり。其間九月一日より十一月三十日に至るまで九十一日間、初めシヤトル市に上陸して、当時開設中のアラスカ・ユーコン博覧会をも見、夫れより中央北部を横断して、東部各都市を歴訪し、更に中央部より西部カリフォルニヤに至るまで、各鉄道会社の線路を走ること約壱万四百哩。州を閲みすること二十六、大小都市を訪ふこと五十三。一面商工業の実況を視察し、一面日米両国間の親交を進むることに之れ勉めたり。此間各鉄道会社の好意を以て、特に一行の為めに供せられたる別仕立汽車に便乗し、太平洋沿岸聯合商業会議所会頭ローマン氏を首め、各地商業団体と、合衆国政府より選出せる接伴委員諸氏の懇切なる斡旋紹介に依て、親しく各地の工場・銀行・会社・鉱山・農場・学校等を参観し、名士としてはミネアポリスに於て謁見の栄を得たる大統領タフト閣下を首め、ブライアン、ロックフェラー、ノックス、ヒル、オブライアン等の諸氏に会見し、或は故英雄の墳墓を掃ふこと、ワシントン、ペリー提督、グラント将軍、ガアフィルド、タウンセンド・ハリス数回に及べり。桑港を発するに当りては、米国太平洋沿岸側の各市商業会議所と、我等商業会議所の間に於て、両国間の通商上に関する議件を協定せり。特にシヤトル、タコマ、ポートランド、スポケーン、ニューヨーク、デンバアー、ロサンゲレス、サンフランシスコ等同胞の多数在留せる地に在つては、或は演説会に臨み、或は来訪者に接して、彼等の現状を聞くと同時に又母国に於ける形勢をも之を知らしむるに勉めたり。最初定められたる行程の外、特に視察を要すべき地、例へばカナダ、ニューオルレアン、テキサス、カリフォルニヤ等の地方に対しては、団員の中より分派して視察を遂げたる者あり。更に帰航の途次布哇に立寄り、其地商工業の実況及在留同胞の現状をも視察するを得たり。尚米国旅行中は渋沢男爵を団長に推し、別に委員長及常議員会を組織して、緊急の団務を処理し、特に水野紐育総領事に団務の斡旋を嘱托せり。其他松井代理大使・埴原書記官・田中シヤトル領事・沼野ポートランド領事・松原シカゴ領事及永井桑港領事等の、其管区内に於ける諸般の斡旋及各地日本人会員等の助力に対しては、之が労を多とせざるを得ず。
終りに臨んで、米国々民の深厚なる友情と懇切なる款待を受けたる光栄を謝し、殊に団員四十余名中已むを得ざる事情の為、中途本団と別れて或は先に帰国し、若くは彼地に留まる者二・三ありしと雖も、彼の異郷の風土に長途の旅行を為して、毫も健康を損することなく、爰に使命を全うするを得たるは、吾人の欣喜措く能はざる所なりとす。
以上は我実業団が、往復四ケ月に弥る行動の概要に過ぎず。尚詳細は他日編纂すべき団誌の発行を俟つて、之を知らんことを希ふ。
     告辞         団長男爵渋沢栄一
報告は是で相済みましたから、茲に解団式を挙げますに付て、一言私は団員諸君に陳情を致して置きたいことがございます。今般の渡米実業団が、前後四ケ月の大旅行をして、茲に其終りを告げて解団式を挙ぐるに至つたのは、御互に最も喜びと致す所であらうと思ふのであります。而して是迄不肖ながら一団の推す所となつて、団長の職務を帯びて、此四ケ月間米国に於ける各地を旅行致しましたが、幸に何たる不平も物議もございませぬで、至る所各地の深厚なる款待を受けて、此旅行を終るを得ましたのは、蓋し私の功労ではなくて、諸君が自身を深く御大切になすつて、団長と致した以上は、努めて其者の意思に従ふ、さうして此一団を美しう好結果を結ばせやうと思召したに出たと思ひますので、其衝に当つて事々物々恐懼謹慎、事を処しました積りではございますけれども、定めて諸君の或は意に満たぬ、或は注意の足らぬと思召されたことが多々ございませうと思ひます。呉れ呉れも深く陳謝致し、御互に大任務を終るを得たることを喜びます次第でございます。
抑此旅行は、一種の国民的外交の動作と云ふべきもので、実に本邦空前の事で有たのです。是故に前例の何か拠るべきものもなかつたし、又先輩に就て如何にやつて行つたら宜かろうかと云ふ、方法の聞きやうもなかつたのであります。故に其当初御互に此国を発する時分からして、如何なる成績を見得るか、或はえらい不都合なることでも生じはせぬかと、段々憂慮に堪へぬのであつた。然るに当初御申合した如く、愛国の熱誠を以て一団の精神としやうではないかと申上げたことは、私自身も守る積りであつたが、諸君も十分御守り下さつて、其精神を以て総てを処置した為め、今日帰国の後に既往を回想して見ますると、固より効果の見るべきものはございませぬけれども、聊か報公の微衷を尽して、国家に裨益したことがありはせぬかと思ふのでございます。偖て実業団の亜米利加にある間の仕方がどうであつたかと云ふと、先づ太平洋沿岸に於ては、排日感情の融和を図つて、又中央部に至りましては ―― 即ちアナコンダ以東に至つては ―― 努めて米国人をして能く本邦を知悉せしむるの手段を講じたのです。是れは如何とならば、どうも中央部は取引も少し、交際も乏しい故に、亜米利加の人々が、日本を知ることが甚だ浅薄である。努めて故に日本は斯う云ふものである、日本人の気性は斯様である、日本の事物は斯く斯くであると云ふことを、能く御知らせ申すと云ふことに努めたのでございます。又東部に進んでは、彼我商工業者間の意思疏通を図り ―― 勿論ニューヨークなり、ボストンなり、相当な商店もあつてそれそれに取引も致して居りますから、西部の日本に疎い如き土地ではないのです ―― 是等の人々に就て又更に亜米利加の有力者の事情をも聞き及、又日本の総体の商工業者の意向をも通徹して、而して更に通商の増進を促さんことを期したのでございます。思ふに我実業団の今回の渡米は今後本邦の商業界には、或は新しい地域を開拓し、且つ米国人をして日本及日本国民に対して、大に闡明することあらしめたるが如し。或は自負の言葉に渉るか知りませぬけれども、此我々の一行の尽力が、亜米利加の人々をして日本の人民は、斯う云ふ性質であつたと云ふことを、了解せしめたゞけのことは、或はあるであらうと思ふのでございます。さうして亜米利加の日本に対する感情は、西部に於ける一種狂暴の徒を除く外、例へば労働者協会等の種類の人を除く外は極めて良好なるのみならず。殊に其排日地方と雖も、多数の有識者は皆自国民の誤解を正して、感情の融和を計るに尽瘁することを認めましてございます。桑港、オークランド、ロサンゲレス、サクラメント、サンディアゴ等、総てあの辺の各地に就て、有識の人々に聞きました所、決して偽りではございませぬ。要するに米国人が我と親善し、以て商工業の関係を増進せんとするは、蓋し国論と云ふを得べく、上下一致切に之を希望する所なれども、商業的即ち平和の競争者として、我当面に立たんとする意気は、実に争ふべからざる事実にして、亜米利加人の気性、亜米利加人の事業に努めて、自国の事物を益々進めて行かうと云ふこと、是は誰れも国を愛し、業を勤める人の、皆希望する所ですから、固より其所であるが、余程其力も強し又精神も強い。故に平和的事業の競争者と云ふものには追々になると云ふことは明言される所であつて、其言語にも其行作にも、総て出て居ると云ふことを理解せねばならぬ。一例を言はうならば航海奨励を頻りに日本でやるから、亜米利加でもやらんならぬと、大統領が常に言はれて居るが如きことに付ても、其気性及事実を証明し得られると思ふのであります。
其他今回の旅行中、至る所の各都市に於て、会見した所の人の内、位地と勢力との如何を問はず、有力の紳士は等しくそれを唱導して居つた。此故に我国民即ち我々は向後は益々親密を図つて、是が良好なる友邦たらんことを以て、我国論とすると同時に、通商上に於ては、一個の好敵手として、十分に力を争ふと云ふことを期さねばならぬのである。即ち、他山の石以て我玉を磨くべしと云ふことになるから、其覚悟を以つて我国民も力を尽さねばならぬと云ふことを申上げるのでございます。今や此団を解くに臨んで、初め此の旅行を促した米国太平洋沿岸聯合商業会議所の好意を鳴謝し、併せて米国官民の深厚なる款待と、在米帝国官憲の注意深き助力とに対して、誠心誠意感佩の意を表す。之を以て此団を解く告辞と致します。
次いで中野氏再び立つて、
  『昨日船中に於きまして団の総会を開きました、其総会の決議により、私より団長に御挨拶を致します、此度の旅行に付きまして、我実業団は、一致を以て渋沢男爵を団長に推しました処、幸に御承諾下さつて、渡米以来終始一貫非常なる勤勉を以て、我団を御指導下さつて、総てのことに付て、非常なる御苦労を下さつたことであります。又団全体が米国に於きまして各所に懇切周到なる款待を受け光栄を与へられた上に付きましても、団長の十分なる名誉と多年の御経歴ある所の御力とが、我団に重きを為した次第であらうと思います。即ち昨日の総会の決議に基きまして、私が団員を代表しまして、渋沢男爵が団長となつて努められたる所の、御苦労に対する感謝を表します。』
と団長に向つて謝辞を述べ、これにて全く式を終り、別室に用意せる午餐を共にし、嬉々談笑の後、各自其家に帰れるは、午後三時頃なりき。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.404-407掲載)