「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

渡航前

 1909(明治42)年7月22日(木) 渡米団の打合会

『東京日日新聞』 第11715号 (1909.07.23) ○渡米団打合会商業会議所及び其他実業家の渡米団は、二十二日午後五時より浜町日本橋倶楽部に於て第一回の打合会を開けり、来会者は渋沢男・中野会頭、日比谷・佐竹・岩原・根津・左右田金作(横浜)等の諸氏十七…

 1909(明治42)年7月19日(月) 米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招待状

『東京商業会議所月報』 第2巻第8号 (1909.08) 米国太平洋沿岸聯合商業会議所より、今回更に本邦五商業会議所に対し、左の通り聯含招待状を送致し来れり To the Tokio, Osaka, Kioto, Yokohama and Kobe Chambers of Commerce.Gentlemen : Desiring to giv…

 1909(明治42)年7月15日(木) 外務大臣より頭本元貞へ電報「公式演説起草と通訳を担当すること」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月十五日に至り、小村外務大臣はシヤトル田中領事を経て、先きに渡米したる東洋通報社の頭本元貞氏に対し、一行がシヤトル到着の時を見計らひ、一行に加はりて、公式演説の起草及び通訳を担当すること、及…

 1909(明治42)年7月14日(水) 米国側準備委員会、各地に通牒「国際貿易は平和の保障」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月十四日、米国側特別準備委員会は、本邦実業家が経由すべき米国各都市の商業会議所に宛て、左の通牒を発したり。右は能く我実業家の渡米に関する、米国側の準備と期待せる所とを表示するものにして且つ如…

 1909(明治42)年7月9日(金) シアトル領事より外務大臣へ、現地からの要望について報告

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月九日に至り、田中領事より外務大臣宛七月九日付報告到達す。右に因れば、米国政府に於ても、我実業家一行に、相当なる国務省の官吏と、其他の各省より選抜したる専門家五名を同行せしむべく、尚ほ主人側…

 1909(明治42)年7月8日(木) 八十島親徳、堀越善重郎夫妻と打ち合わせ

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 七月八日 雨朝王子ニ至ル、堀越夫妻ト会シ、渡米着衣其他打合ノ為也、婦人ハスベテ盛装ノ場合ハ日本服着用、道中着ニノミ洋服ヲ用フル事ニ決ス (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.40-41掲載)

 1909(明治42)年7月8日(木) 外務大臣よりシアトル領事へ回答「教育家派遣について承諾。新聞経営者も加えたい」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 右 [1909年7月7日の米国側の希望] に対し外務大臣は、七月八日を以て、本邦側に於ては、教育家派遣に対しては、大体に於て之れを承諾し、尚ほ当方の希望として、十分の資格ある新聞経営者一両名を加へたき旨…

 1909(明治42)年7月7日(水) シアトル領事より来電「米国は日本第一流の教育家の同行を希望」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 七月七日、米国側にては、我実業家一行が、日本第一流の教育家一両名を同行することを希望する旨、シヤトル領事より来電あり。 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.28掲載)

 1909(明治42)年7月6日(火) 堀越善重郎夫妻の同行が決定

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 七月六日 曇○上略堀越善重郎氏夫妻モ、男爵ノ推薦ニ依リ、米国行ノ行ニ加ハル事ニ決ス ○下略 (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.40-41掲載)

 1909(明治42)年7月5日(月) 団員の人選(正賓15名)について協議、渋沢栄一を含む5名確定

『時事新報』 第9257号 (1909.07.07) 実業家渡米期 八月十九日横浜出帆渡米実業家中の正賓十五名の人選に関し、五日午後一時より東京商業会議所に於て渋沢男・中野・大橋・日比谷(東京)土居・中橋(大阪)西村(京都)岡田(横浜)並に萩原通商局長等の…

 1909(明治42)年6月30日(水) 八十島親徳、随行を申し渡される

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 六月三十日 晴夕ヨリ雨○上略 夕兜町ニテ同族会開催 ○中略 男爵渡米決定ノ旨報告、又予随行ノ事モ改メテ申渡サル (『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.40-41掲載)

 1909(明治42)年6月24日(木) 渋沢栄一、竜門社評議員会における演説で渡米の決意を表明

『竜門雑誌』 第254号 (1909.07) p.22-27 青渊先生の二大決断 左の一篇は、六月二十四日竜門社評議員会に於て、青渊先生が実業界勇退と渡米の二事に就て、同社員に告白したる演説筆記なり○中略○男爵の渡米と国際関係 それから更に一つ申上るのは、昨年亜米…

 1909(明治42)年6月23日(水) 「男爵は快諾せられし由」(渋沢栄一秘書役、八十島親徳の日記より)

八十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵) 六月二十三日 曇雨朝出勤ス、此度五商業会議所ニ対シ米国太平洋沿岸商業会所ヨリノ招待アリタルニツイテ、渡米者人選容易ニ定マラズ、一昨廿一日市内重ナル実業家ガ帝国ホテルニ会シテ、男爵諸会社引…

 1909(明治42)年6月22日(火) 日本の五商業会議所から承諾の回答

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 右 [5月10日着の招待状] に対し、東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所は、左の通り回答して承諾の意を表したり。 以書翰致啓上候、陳者東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所の会頭た…

 1909(明治42)年6月21日(月) (69歳) 渋沢栄一、渡米実業団への参加を承諾 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是より先、アメリカ合衆国シアトル、スポカン、タコーマ、ポートランドの四商業会議所、前年東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所が其代表者を招待せし懇遇に酬いんが為め、右五商業会議所に対し、其代表者三十名をアメリカ合衆国に招待して友情を温…

 1909(明治42)年6月20日(日) 報道『中外商業新報』 第8313号 (1909.06.20)

『中外商業新報』 第8313号 (1909.06.20) ○渋沢男と渡米 赤毛布師団は斥くべし 米国商業会議所の招待に応ずべき渡米の実業家は、今や正しく選定中なり、茲に於てか最も注目すべきは渋沢男の進退也、固より男をして之に応ぜしめん事は、朝野の希望に依り、…

 1909(明治42)年6月18日(金) 小村外務大臣、在日米国大使宛に公文を寄せる

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 右 [6月11日着の公文] に対し小村外務大臣は、六月十八日附を以て、在本邦米国大使に対し左の公文を寄せたり。 以書簡啓上致候、陳者帝国商業会議所代表者が、貴国商業会議所の招待に応じたるに付、…

 1909(明治42)年6月11日(金) 外務大臣宛、在日大使オブライアンより公文「招待状の差し替えについて」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月十一日に至り、在本邦米国大使トーマス・ジェー・オブライアン氏は同日附を以て、外務大臣小村伯へ宛て左の公文を寄せたり。 以書簡致啓上候、陳者本使は合衆国政府が、日本の商業会議所を代表す…

 1909(明治42)年6月11日(金) シアトル領事より来電「人選は十分注意を。現地では渋沢男爵による人選、および可能な限り夫人同伴を希望」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] [シアトル在住田中領事の電報は] 六月十一日には、米国側に於ける接待準備著々進行せる旨を報じ、更に我実業家は、米国内到る所にて十分の歓迎を受け、各種の便利を与へらるべきこと、最早疑ふの余地…

 1909(明治42)年6月9日(水) 米国側、委員会開催

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 我一行渡米の期近づくにより、米国側にては着々準備を進行し、太平洋沿岸聯合商業会議所特別委員会を、一九〇九年六月九日、華州シヤトル市に於て開会せり。出席者左の如し。 桑港商業会議所代表者 …

 1909(明治42)年6月8日(火) 在シアトル領事より来電「米国籍船ミネソタでの来訪を期待」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月八日、田中領事の電報は、米国側に於ては我実業家の一行が、成るべく米国々旗の下に太平洋を横断するを望み、即ち八月十九日横浜出帆、九月二日シヤトル着の汽船ミネソタ号に搭乗せんことを希望…

 1909(明治42)年6月5日(土) サンフランシスコ領事より外務大臣宛に来電「カリフォルニアも招聘に参加」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 六月五日着在桑港永井領事より小村外務大臣宛ての電報に曰く 『桑港商業会議所其他加州の諸商業会議所は、米国政府の斡旋に因り、太平洋西北沿岸四商業会議所と聯合し、「太平洋聯合商業会議所」の名…

 1909(明治42)年5月10日(月) 米国の商業会議所より招待状到着

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 明治四十二年五月十日、左の正式招待状、外務省を経て我五商業会議所に達せり。拝啓、陳者日本国並に日本国民に対し、友情好意を表明せんが為め且つは日米間に於ける貿易の発達と、意志の疏通を図り…

 1909(明治42)年5月7日(金) 在シアトル領事より来電「米国政府は内閣会議で極力賛助を決定」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] シヤトル駐在帝国領事は、五月七日付電報を以て、米国政府は内閣会議に於て、我実業家招待の件を極力賛助のことに決定し、並に諸鉄道会社との交渉は総て満足なる結果を得、及び実業家一行は各地巡覧…

 1909(明治42)年5月4日(火) 在シアトル領事より来電「サンフランシスコも参加する形勢」

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [日本排斥運動の盛んな折、日本の商業視察員招待について議員の反対を受け、サンフランシスコ商業会議所ではカリフォルニア州は止むを得ず招待を無期延期、もしくは中止との見通しであったところ][前略] 然…

 1909(明治42)年4月15日(木) 外務大臣から大阪・京都・兵庫・愛知の各府県知事に公文を発し、勧誘について訓令

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 外務大臣は十五日を以て、大阪・京都・兵庫・愛知の各府県知事に公文を発し、成るべく其地方に於て重立ちたる実業家と協議し、米国希望の招待に応ずるやう、勧誘方を訓令したり。而して、其当時人員…

 1909(明治42)年4月13日(火) 米国準備委員、アメリカ東部を巡回して鉄道会社社長(ブラオン、ハリマン)に協力を要請

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 右[1909年4月12日]の翌日、エリオット氏に伴はれて、委員等は紐育中央鉄道会社の社長ブラオン氏を訪問したり。委員がブラオン氏に此計画を説明するや、同氏は直に商業上の事態如何なるべくとも、日本…

 1909(明治42)年4月12日(月) 米国準備委員、アメリカ東部を巡回して実業家(エリオット、ヒル)に協力を要請

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 委員は四月十二日紐育に於いて、北太平洋鉄道会社々長ハワード・エリオット氏に会見し、同氏と同行して大北鉄道会社取締役会長ゼームス・ジェー・ヒル氏に面会したり、ヒル氏は委員の訪問前、既に今…

 1909(明治42)年4月12日(月) 渋沢栄一、高橋是清、中野武営の3名、小村外務大臣から渡米団人選を任される

『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.14-72 [前略] 四月十二日、小村外務大臣は本件に関し、渋沢男爵・三井男爵・岩崎男爵(久弥)・松尾男爵・高橋男爵(是清)・豊川良平・池田謙三・早川千吉郎・浅野総一郎・添田寿一・大倉喜八郎・森村市左衛門・…

 1908(明治41)年10月16日 (68歳) アメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員を飛鳥山に招待 【『渋沢栄一伝記資料』第25巻掲載】

是より先、東京・大阪・京都・横浜・神戸の各商業会議所はアメリカ太平洋沿岸諸都市の商業会議所代表者を招請し、是月十二日代表委員一行来着す。仍つて十四日、右五商業会議所は聯合主催して紅葉館に歓迎晩餐会を開き、翌十五日、横浜正金銀行はその歓迎晩…