「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1908(明治41)年10月16日 (68歳) アメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員を飛鳥山に招待 【『渋沢栄一伝記資料』第25巻掲載】

是より先、東京・大阪・京都・横浜・神戸の各商業会議所はアメリカ太平洋沿岸諸都市の商業会議所代表者を招請し、是月十二日代表委員一行来着す。仍つて十四日、右五商業会議所は聯合主催して紅葉館に歓迎晩餐会を開き、翌十五日、横浜正金銀行はその歓迎晩餐会を開けり。栄一毎回出席したるも、是日個人として一行を飛鳥山邸に請じて午餐会を催し挨拶を述ぶ。次いで十九日男爵岩崎久弥主催歓迎会其の深川邸に催され、翌二十日浅野総一郎主催歓迎午餐会芝区田町の同邸に開かれ、栄一毎次出席す。更に十一月五日栄一同委員会長ドールマン(F. W. Dorman)を帝国ホテルに訪ひ、翌六日再び訪問す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 2章 国際親善 / 3節 外賓接待 / 13款 アメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員歓迎 【第25巻 p.615-629】

日露戦争後の満州利権問題やサンフランシスコにおける排日問題で、1908(明治41)年当時、日米間は緊張した空気が漂っていました。渋沢栄一は民間外交により、その緊張する日米問題の改善に力を注いでいきました。
渋沢栄一伝記資料』第25巻p.618-624には飛鳥山邸での歓迎会の様子が、『竜門雑誌』第245号(1908.10)から転載として紹介されています。

  △青渊先生の演説
[前略] 抑々各位の渡来は我商業会議所の懇請に依ると雖も、又我国の風俗・人情を見、且実業上の気脈を通ぜんとの目的も存するならん、されど余は各位が更に大なる意味を有し、特に来朝せられたることを信ず、[中略] 故に両三年前貴国太平洋沿岸に於て就学児童問題・移民問題・労働者問題に関し厭ふべき風説を伝へ、事を好むの外字新聞紙は喋々不穏の記事を掲げしかど、[中略] 今般各位の我邦に来航せられて相互の懇情は事実に於て更に昔日に増すものあるを見るが故に、前記の風説の如きは雲散霧消して其跡を留めざるに至るを、余は確信して疑はざる者なり [中略]
想ふに将来国運の進歩は実業の発展に待たざるべからず、而して其之を発展せしむるは貴我実業家の手腕にありとせば、各位と余等とは其責任重且大と云ふべし、而して実業の完全に発達拡張するは一に社会の平和に帰すべしとせば、自今以後貴我相提携して之に勉めざるべからず、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第25巻p.622-623)

この翌年の1909(明治42)年、アメリカの太平洋沿岸聯合商業会議所は返礼に日本の実業家を招待、それに応え、栄一を団長とする総勢51名の渡米実業団が組織されました。