渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 曇 寒
○上略 六時日本橋倶楽部ニ抵リ、月次会ノ饗宴ヲ受ク、卓上一場ノ演説ヲ為ス(米国旅行中ニ感セシ要件ノ二三ヲ述ヘタリ)食後種々ノ談話アリ、夜十一時過帰宿ス ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.421掲載)
『竜門雑誌』 第261号 (1910.03) p.37-38
○日本橋倶楽部晩餐会
(青渊先生並に山本総裁招待)
日本橋倶楽部は、一月十七日夜六時月次会を開き、青渊先生並に山本勧銀総裁を招待して其所見を聴けり、宴の将に終らんとするや、大橋新太郎氏は主人側を代表して簡単に一場の挨拶を述べ、一同と共に来賓の健康を祝せんと乾杯し、先づ青渊先生の演説を請へり、依て先生は立て、渡米当時の感想を語て曰く
米国の我が実業団を遇するや実に墾篤を極め、一行為めに多大の面目を施せり、左れど一面既に斯る面目を得たる以上は、永遠に之を保持せざるべからざるの責め重且つ大なるを感ずると共に、彼の東洋に雄飛せんとするの念頗る篤きを認めし上は、決して油断は出来ざる也、而して其国富充実の跡一見実に羨望に堪へざる所なるが、当初西部を見ては、彼の今日ある上に天与の恩恵大なるあるに帰因すと感したるが、漸次東部に入るに及んで、必ずしも天与のみに依て然るにあらず、寧ろ人為的奮闘の結果なるを確信するを得たり、於是乎予は吾人の覚悟如何に依て、彼に拮抗すること遂に難きにあらざるを信ぜしめたり、而して之れと共に、彼我企業の風潮を観るに、彼は学理と法律に束縛せらるゝなきに反し、我れに於いては徒らに学理に駆せ総てを法律づくめに決せんとするの弊あり、若し夫れ此弊風を去て、学理と法令をして事実の後に随従せしめ、一方国民挙て奮闘するあらば、蓋し商工業の発達期して待つを得べし云々
と結び、了て高木益太郎氏営業其他に関し注意を促す所あり、九時散会、会するもの主賓を始め七十余名に達し、頗る盛会を極めき
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.426掲載)