「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月15日(月) コロラド州庁、消防署、公共浴場、学校等を見学。夜はホテルで晩餐会。カリフォルニア分遣隊出発 【滞米第76日】

竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十五日 月曜 (雪)
午前八時半青渊先生にはレセプシヨン委員の来訪を受け、同九時一同と共に相伴ふてコロラド州庁を訪ひ、州知事シヤーフロース氏・州副知事フイツズガラード・リウテナント氏等と接見会あり、次に市役所に到り市長スピール氏等と接見し、終りて消防署を訪ふて消防機械の敏活なる運用を見、夫れより公共浴場(市の費用を以て維持し、無料にて希望者に入浴せしむるものなり)の設備を一覧して、高等工手学校に到り男女学生が実地練習の様を見、且同校女学生の手に成れる茶菓の饗を受け、後講堂に於て演説会開かれ、校長の挨拶に次ぎ神田男爵一場の演説を為す、茲を辞し午後一時運輸倶楽部に於て午餐を饗せらる、食後一行は各自研究の方面に向て視察を為す筈なりしを以て、青渊先生は別れてホテルに帰着し、小憩の後不良少女・孤女・棄女等を収容せる小女感化院、及基督青年会を一覧して六時ホテルに帰着せらる
午後七時半ホテル内に晩餐会あり、州知事シヤーフロース氏・市長スピール氏・チヤンバーレン氏・ルート氏・スキンナー氏の演説に次ぎて、一行を代表せる青渊先生の演説あり、後コロラド州の風景幻灯写真あり、十二時解散、列車に帰着す
此日青渊先生令夫人には、例の如く市の婦人団体より歓迎を受け、正午ホテルに於て此等歓迎員を始め市の有力なる婦人及婦人記者等と午餐を共にせられたるが、席上同婦人等の懇請黙し難く、遂に一場の感想演説を試みられ(水野総領事令夫人之を英訳す)拍手喝采を受けられしと云ふ
加州農業地を視察せんとする中野・南・渡瀬の三氏は、永井領事の案内にて一行と分離して本日南加州に赴き、又多木氏夫妻は本日桑港に直行したり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.299掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第一節 デンバァ市
十一月十五日 (月) 雪
午前九時一同自働車に分乗して、先づコロラド州庁を訪ひ、シャーフロース知事・フイックガラード副知事と接見会あり。次に市役所を訪ひ、市長以下市吏員と接見し、次に市の消防署・公開遊泳所等を巡覧し、市公園の博物館及び病院等を参観す。正午は運輸倶楽部にて午餐を饗せられる。食後特に希望せる人々は、瓦斯及電気会社を訪ふ。夫れよりデンバァ・アウーディトリアムを訪ふ。同館は工費六千万弗を要し、優に一万三千人を容るゝに足る大会堂なり。次に同市街鉄発電所に立寄り、後ち湖畔及バークレイ公園等を過ぎて基督教青年会館を訪ひ、夕景帰館す。尚ほ団長以下有志の者は、貧児感化院に至り、渋沢男・神田男等の感話あり。午後七時半よりホテル内に晩餐会あり、知事シャフロース氏・市長スピール氏を始め、チャンバーレン、ルート、スキンナァ氏等の歓迎演説、及び渋沢・神田両男の答辞あり、後コロラド州の風景幻灯写真など見物し、十一時半頃一同列車に帰る。
婦人の部 午前中は休憩、午前十一時四十分、知事・市長の夫人及其他の婦人ホテルに来訪、市の有力なる婦人及婦人記者等とホテルにて午餐を共にし、午後二時婦人倶楽部にて接見会あり、終りて湖畔を回遊しホテルに帰る。午後六時半再び出迎に伴はれて、ヒル氏夫人方にて晩餐を饗せられ、終りて列車に帰る。
加州農業地を視察せんとする我分遣隊は、今夕九時当市を発し、南加州に赴く。隊員は中野・南・渡瀬・加藤の四氏にて、永井領事之を案内せり。
多木氏夫妻は秋山随員を従へ、今夕九時桑港に向け直行、東洋汽船会社々客掛島田氏は、此処に一行を迎へ、サクラメント迄同行して帰航船の事に就き打合せを為す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.309-310掲載)


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