「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月14日(日) 日本への発電「ブライアン氏の演説」(竜門雑誌)

竜門雑誌』 第259号 (1909.12) p.40-49

△ブライアン氏の演説(デンバー十一月十四日発電)
我実業団一行十三日朝ヲマハに着、知事シヤルレンバーガー・市長デイスルマン氏等の歓迎を受け、直にマツキン新式大電車に乗換へユニオン・パシフイツク鉄道電車工場等を見物し、水道工事のポムピング・ステーシヨンにて午餐を喫し、市内及美術品陳列所等を観覧す、夜に入ては商業倶楽部に晩餐会あり、尚有名なるブライアン氏夫妻は、曩に日本来遊中非常の歓迎を受けたるを多として、リンコルン市より特に接待の為め当市に来り、夫人は婦人側の歓迎を斡旋し、ブライアン氏は商業倶楽部の晩餐会席上、世界的友誼と題して大要左の如き演説を為せり、尚当夜は上院議員メンダー将軍・前上院議員ハルレン両氏の驩迎辞、渋沢団長の答辞ありたり
  余は近頃毒手に殪れ世界各国均く哀悼せる伊藤公爵を善く知れり又政敵たる大隈伯とも会見せるが、以上両大政治家の意見を聞いて、国利民福の大主義の前には党派の異同の竟に謂ふに足らざるを感じたり、凡そ確執の起るは畢竟双方の誤解に基くものなり、斯く日本国民の交誼を温むるは、既に親密なる関係を更らに親密ならしむる所以なりと信ず
  抑も貨物の輸出入に対しては、繁苛なる税関あれど、思想の輸出入には何等の制裁あることなし、今回賢明なる紳士諸君が米国より輸入せらるゝ所は、必ず貴国の福利に資する所、尠からざるべし、希くば今回の巡遊をして日本国家に齎らす所多からしめよ
  抑も世界各国は自国民の福利を保護すべき義務あり、現世界の趨勢は主として経済的見地に基き、世界の列国は漸く平和の世界たらんとす、故に我国は世界に率先して一大協約の提議者となり、国際紛議に先ちて仲裁会議を開くの得策たるを主張するも、決して空論にあらざるべし、更に喜ぶべきは人世哲学の進歩が近年特に顕著となり、此に由て戦争を未然に防ぐの傾向ある事なり、各個人が社会の進歩に由て自から益する如く、国民亦各国の発達に由て幸福を得るを期すべし、他人を損害して自個を利益し、若くは他国の衰頽に乗じて自国を強うするが如きは、決して策の得たるものにあらず、是れ蓋し、世界人類の均しく信ずべき真理ならずや
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.321掲載)


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