「渡米実業団」日録

情報資源センター・ブログ別館

 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月14日(日) 降雪の中、午後7時半にデンバー到着。日本人会主催演説会には聴衆八百余名。渋沢栄一、新聞社などのために揮毫。テキサス方面を視察していた南、多木両夫妻が合流 【滞米第75日】

デンバー商業会議所徽章

 「デンバー商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十四日 日曜 (雪)
午前三時半オマハ市を発しデンバー市に向ふ、追々ロツキー山の中腹に近きたればにや寒気甚し、而して前日来引続きたる降雨は前夜雪と変じ、デンバー市に到着する頃は積雪数寸に迨び、一望銀世界となれり、七時半同市停車場に着す、永井桑港領事・桑港日本人会書記長久万氏等来り会す、市長スピール氏・商業会議所会頭バートレツト氏等を始め、日本人数百名プラツトホームに並列して一行を迎ふ、依て青渊先生を先頭に一行下車するや、直に略式接見会あり、後出迎の特別列車にてホテル・ブラウ・パレースに投宿す
此日は日曜なりしかば、市の歓迎は無かりしも、午後九時より日本人会主催の演説会あり、青渊先生は中野武営及巌谷小波氏と共に、希望に応じて出席演説せられたり
演説会は司会者大久保武亮氏開会の辞を述べたるに始まれり、永井松三氏(桑港領事)・ベンネツト氏(名誉領事)の演説に次きて、コロラド州日本人実業同志会々長外岡直一氏は、日本人の此地に入りしは七年前コロラド製糖会社の要求に依りて、卅六人来りしを始めとして、今や当州に二千九百人の同胞の在住を見るに至れり、而して同胞の成績は頗る良好にて、白人の信用を博し居れり、嘗て某白人は林檎園の栽培に就て日本人と白人との成績を試験したる事あり、其結果は日本人の栽培したる方、白人より二週間早く完全に其業を終り大に賞讃を得たる事あり、如此邦人の此地に於ける声価の良好なるに加へて、米国南部の大都市たる此地に領事館を設置し、益々在留邦人の便宜を謀られん事は、吾人の切に希望する処なりしが、昨年石井通商局長此地巡視の際、此我々の希望を容れて之が設置を約束せられたるも、未だ其運に至らずして漸く名誉領事を置くに過ぎざるは、甚だ遺憾に感ずる処なり云々と演説し、水野幸吉氏(紐育総領事)の演説あり、之に次きて青渊先生起ちて、先づ一行来遊の理由、日本の今日あるはコンモンドル・ペリー氏の厚意に拠る事、一行がシヤトル市上陸以来、到る処に於て盛大なる歓迎を受けたる事を述べ、尚一行は普く米国商工業の状態を知悉して、之を本邦の同胞に告げ以て両国貿易発達の資に供するは、即ち吾人の任務なりと信ず、日本の実業発達は国難の結果にして、実業家の金箔は全く政治と軍事より附せられたるものなり、若し実業家にして品性を正しくせざれば此金箔を滅失する事となるべしと説き、次ぎに日本内地の経済状態に付きては、三十九年頃諸事業勃興したるが、四十年に到りて一頓挫を生し、本年に入りて漸次恢復し、国外に於ける公債の如きも今や好況を呈しつゝあれば、諸君の安心を請ふと国内の情況を述べられ、更に諸君は海外に在りて困苦に打勝ちつゝあるならんが、凡て事の成就は智識に在り、豈只智識のみに依るべからず、勉強心なかるべからず、耐忍力なかるべからず、諸君は須らく働きつゝ学ぶべし、而して古人の金言「言忠信行篤敬ナレバ蛮貊ノ国ト雖トモ行ハレン、言忠信ナラス行篤敬ナラサレバ、閭里ト雖トモ行ハレス」を教として勉めらるゝに於ては、必ず成功は期すべきなり云々、次ぎに中野武営氏の演説、巌谷小波氏の依頼心と云ふ題にて御伽話ありたり、聴衆八百余名に達し頗る盛況なり、午後十一時四十分ホテルに帰る
此日先生には伴新三郎氏・当地支店支配人柏野無事三氏の為めに『言忠信行篤敬』名誉領事ドクトル・アルベルト・ヱル・ベンネツト氏の為めに『業精于勤』及コロラド発展史、デンバー新聞社の為めに揮毫を試みられたり
先にピツツバーグよりテキサス方面へ向へる南博士及多木夫妻一行、今日此地にて本団に合す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.298-299掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第一節 デンバァ市
十一月十四日 (日) 雪
午前三時半オマハを発しデンバァに向ふ、追々高原に入るが為に、漸次寒冷を覚え、夜半より降雪烈しく、払暁に迨んでは見渡す限り一望皚々たり。午後七時半デンバァに着、永井桑港領事・桑港日本人会書記長久万氏等来り会す。停車場には市長スピール氏・商業会議所会頭バートレット氏を始め、日米歓迎員等数百名の出迎あり、略式接見の後、直に出迎の特別電車にて「ホテル・ブラウン・バレース」に入る。
午後九時より同地日本人会主催の演説会あり、司会者大久保武亮氏先づ開会の辞を述べ、外園直一氏は在格州日本人状態を説明し、次に永井領事、及今回新たに任命されたる名誉領事ベンネット氏等の演説あり、終りて渋沢男、中野・巌谷氏等の講演ありたり。聴衆八百余名。
先にピッツバーグよりテキサス方面に向へる南博士、及び多木氏一行は、今日此地にて本団に合す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.309掲載)


参考リンク