「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月30日(木) デトロイト到着、騎馬隊に先導された歓迎自動車に迎えられる。デトロイト・ボート・クラブで午餐、パーク・ディビス製薬会社やパッカード自動車会社等を見学 【滞米第30日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

   ○九月二十七日ヨリ十月一日マデ記事ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.156掲載)


竜門雑誌』 第267号 (1910.08) p.40-47

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月三十日 木曜日 (晴)
午前一時グランド・ラピツド市を発し、同八時デトロイト市に到着、車内にて朝食を済ます、九時騎馬巡査の一隊を先頭として、歓迎自動車一隊停車場に集合して一行を迎ふ、即青渊先生以下列車を辞し、該自動車に分乗してホテル・カヂラツクに向ひ、少憩の後ミシガン・ストーブ製造会社に到り、暖炉の製造を見、続いて水道設計及公園を巡覧の上、デトロイト短艇倶楽部に到りてパークデビス会社開催の午餐を饗せられ、高峰博士の簡単なる歓迎演説に対し、青渊先生一行を代表して答辞を述べられ、畢りてパークデビス会社に到り(同会社は千八百六十六年の創立にて資本金八百万弗、製品一年の販売高千五百万弗、従業者数三千人、米国内支店出張所の数十箇所、国外には竜敦・シドニー・孟買・セントピータースボルク・東京の各地に支店を有し製薬会社としては世界一なりと云ふ、高峰博士は此会社の顧問にして彼の有名なるタカヂアスターゼは此会社の製薬なり)製薬の各室を巡見し、後室外に出でゝ同会社附属消防隊の消火演習を見、午後三時パツカード自動車製造会社を一覧し、夫れより公園及市街を巡覧して、五時半帰宿、晩餐の後、七時半歓迎委員と連れ立ちてテンプル劇場に赴き、観劇の後十一時帰宿す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.170-171掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     七節 デトロイト
九月三十日 (木) 晴
午前八時デトロイトに着。午前十時数十台の自働車出迎に来る。一同之に分乗し、カヂラック・ホテルに向ふ。此際十数名の騎馬巡査列をなして、一行を先導し、ホテルに入りしは、今日迄、未だ例無き所とす。次でストーブ会社を参観し、水道公園に至り、其大ポンプを見、それよりデトロイト河を渡りて、ベレ・アイランド公園なる、デトロイト端艇倶楽部に入る。
午後十二時半頃より、同倶楽部の大広間にて午餐会あり。高峰博士の発見薬タカヂヤスターゼ、アドリナリン、其他を製造せる、パーク・デビス製薬会社の饗応なり。高峰博士社長に代りて、歓迎の辞を述べ、渋沢男之れに答ふ。食後午後三時、パーク・デビス会社に至り、会社専用の消防隊実習を見物し、それより薬品製造所を巡覧するに、其規模の大なる、実に驚嘆の外なし。(同会社には有名なる病菌研究所あり)四時過、更にパッカード自働車製造会社を訪ふ。蓋し当市には自働車製造所数ケ所あれども、該社は其泰斗たる者なりと云ふ。午後五時半頃一同ホテルに帰り、午後八時歓迎委員の案内によりて、テンプル座を見物す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.189-190掲載)


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