「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月1日(金) 計算機会社バロースを見学、算盤と計算機で競争。夜はキャデラック・ホテルで商業会議所主催晩餐会 【滞米第31日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

   ○九月二十七日ヨリ十月一日マデ記事ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.156掲載)


竜門雑誌』 第267号 (1910.08) p.40-47

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月一日 金曜日 (晴)
午前十時青渊先生以下一行出迎の自動車に分乗して公園を巡回の後、バーロース計算器製造会社に到る、会社員先導して各作業室を案内説明し、計算器を運転して一同に示せり、巡覧終りたる後、一室に於て日本の算盤と此の算器との競争加算を試しが、加算器にて四分間に計上したる同数を、和算にては二人掛りで五分を要し、其上誤算なりしは遺憾なりし、夫れより幻灯を映じて、野蛮時代より文明時代に到る迄の計算の方法進歩の状態及会社の作業の有様など示したる後、第一銀行及日本銀行等をも映出して拍手を受けたり、十二時デトロイト倶楽部に到り、商業会議所の催にかゝる午餐の饗を受け、司会者の歓迎演説に対し、青渊先生答辞を述べられたり、午後は一行各自希望のものを縦覧する事となり、青渊先生はフリーア氏邸に到りて美術品を観覧せられたるが、同氏は巨万の富を有するに拘らず、妻も無く子も無く、只美術品を友とするのみなりと云ふ、目下清国漫遊中にて不在なりしが、特に一行の為めに開館したるものなり、日本の美術、特に光琳の絵は世界無比と称せられ、我国美術家の賞讚垂涎措かさる所なりと云ふ、同氏は死後之を米国政府に寄附すべく、特に一館を華盛頓に建てゝ之を陳列すべき旨昨年国会に提出して可決せられ、大統領の裁可を得たる由なり、午後五時ホテルに帰り、七時半よりカデラック・ホテルに於て開催せられたるレセプシヨンに引続、八時開会の晩餐会に臨まれたり、演説者は商業会議所会頭サムナー氏・青渊先生・ライヤン氏・神田男爵・ラツセル氏・水野総領事・デンビー氏なりし、左に各演説の梗概を掲く
   サムナー氏演説
 日本実業団は平和の使節なり、吾人は誠心誠意を以て一行を歓迎するものなれども、当市滞在日数少き故、十分なる歓迎を為す事を得ざるを遺憾とす、渋沢男爵は日本に在りて最も多忙なる人なり、此偉人が凡てを犠牲に供して、団長として来遊せられたるは、吾人の特に感謝措く能はざる処なり、云々
   青渊先生の演説
 一行が此市に到着以来、商業会議所議員其他本市全体の紳士が、一見旧知の如き温情を以て、一行を歓迎せられたるは、衷心喜悦に堪へざる処なり
 一行はデトロイト市の名を聞く事久し、特に予は箇人として特に其名を詳かにせり、高峰博士は予の二十有余年来の親友なり、同氏とは本国に於て一の事業を共にしたる事すらあり、同氏が久しき前米国に来り、当市に於て技術を成功せられたるが、蓋し当市諸君が我同胞を擁護せられたる故なりと思考す
 一行五十人の多人数団体を為して米国に来りたるは、偶然にあらざるなり、回顧すれば吾国は米国の為に睡を覚され、爾来両国の国交は益々親善を重ね、貿易は歳と共に増進しつゝありと雖ども、更に一層之等を進めんとせば、両国実業家は深く提携せざるべからざるなり、是れ一行が米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招に応じ来遊したる所以なりとす
 吾々の貴国に対する感情は終始渝る処なく、従来の懇篤なる情誼を感謝して、益両国貿易の発展を希望する外、何物も存在せざるなり、吾々は政治外のものなれども、日本政府も亦、同感情を有せるを以て、日米両国間に何等紛擾の生ずる如きは断じてあらざるなり、蓋し一行が到る処に於て盛大なる歓迎を受くるは、相互感情の親善なる確証にあらずや
 吾々はシヤトル市到着以来、到る処の事物を見、仮令ば山林の有様を見て日本は如何と思ひ、大農式の有様を見て日本の小農法は如何と思ひ、鉱山を見て其原料の富豊なるに驚き、何が故に造物主は、米国に厚くして日本に薄きかを慨嘆したる者なりしが、当デトロイト市に到着以来、各種の工場を巡覧して、吾人の慨嘆は一の杞憂に属するものなる事を悟りたり、デビス工場・計算器工場・自動車会社は、果して地の利を得たるが為めに斯く盛大に到りしか、蓋し然らず、吾吾も益勉励・耐忍・誠実の精神を以て事に当れば、日本をして当市の如く繁盛ならしむる事能はざる事なきを信ずるに到れり此奮発心は当市の賜なり、此賜は諸君より饗せられたるものなり、云々
   フランク・ジー・ライアン氏の演説
 日本実業団一行が当市に来訪せられたるは頗る感謝する処にして、予は先年日本に旅行したる際、懇篤なる歓待を渋沢男爵等より受けたるを深く記憶せり、今回、幾分なりと酬ゆるを得たるは、衷心喜悦に堪へざるなり
 米国と日本は恰も兄弟なり、此若き兄弟相融和し、互に提携して、世界の文明を図らざるべがらざるなり、云々
十二時解散、直に列車に搭す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.171-172掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     七節 デトロイト
十月一日 (金) 曇
午前十時一同自働車にて、市内公園等を巡覧し、バロース計算器製造所に至り、該器製造の状況、並に計算器運用の技巧を験す、此際町田氏試みに珠算を以て競算せしに、僅かに九十二秒の差を以て敗れたり。午前十一時半同所を辞し、十二時デトロイト倶楽部の午餐会に列す。夫れより各自数隊に分れて、各工場・会社・病院等を参観せしが、団長以下婦人連二十余名は、フリーヤ氏の私邸に至り、同氏が多年苦心して蒐集せし、日本古美術の逸品を観覧す。
フリーヤ氏は曩きに世界漫遊の途に上り、現に清国北京にありと聞き、乃ち氏の肖像に対し、杯を挙げて遥かに其健康を祝し、又た在北京の同氏に電報を以て敬意を表す。
夜七時半カヂラック・ホテル内に、商業会議所主催の正式晩餐会あり。席上会頭サンマー氏歓迎の辞を述べ、渋沢男・神田男・水野総領事等之に対し答辞を陳べ其他市長以下二・三氏の歓迎演説あり。最後に当市出身の米国下院議員、デンビイ氏の外交に関する演説あり、其大要下の如し。氏は共和党員にして、外交委員の一人なりと云ふ。
『従来日本より我国に来たれるもの多かりしも、斯る大団体の来訪せるは実に未曾有の事とす。日本は果して、将来東洋に覇たるの野心ありや否やは知らざれど、日本は東西両洋の間に、文明の連鎖たるべきは疑なし。日本人の愛国心に富めるは、已に二大戦争によつて証明せらる。浅薄なる米人は、日米の開戦を論ずれども、云ふは易くして行ふは難し。而かも日米両国人とも、戦争には頗る強烈なり。故に一旦事あれば、実に、世界の最惨事なるべし。然れども、両国共斯る大事を敢てする程に愚昧ならず。若し夫れ商業上の敵たるが故に戦ふべくんば、米国は、英とも、独とも、仏とも戦はざるを得ず。米国現政府の持続する限りは、然ること決して無し。仮令商業上の競争は為すも、开は必ず平和的の争ならざる可らず。一時世を騒せし移民問題の如きも、日本はその大切なる労働者を、多く米国に出して、米人と争ふを好まず。已に公平なる解決を下せし以上、此問題は、最早論ずる余地なからん、諸君が此の市を去るに当つて、敢て記憶を乞ふは、工場の大なるに非ず、其市民の熱心を以て、日本の友たる点にあり。』云々。
宴後一同列車に帰る。
婦人の部 正午、市の倶楽部に於て、フリーヤ氏の婦、スジロツス夫人の饗応を受く。後オブライアン氏の好意にて撮影をなす。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.190-191掲載)


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