「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月23日(木) 渋沢栄一、大工場を見学し「見る多き(ミルオーキー)」と賞賛、公会堂でスカーマン・ヘイネック(E.シューマン=ハインク?)を聴く 【滞米第23日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月二十三日 晴 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ支度ヲ整ヒ、八時朝飧ヲ食ス、後自働車ニテ湖水ニ沿フタル公園ヲ経テアルムス・チヤルマスト云フ鉄工所ニ抵リ場内ヲ一覧ス、構造壮大ニシテ頗ル整頓ス、工場ノ敷地三十六ヱーカーアリト云フ、起業費六百万弗ニシテ、一ケ年ノ事業高弐千五百万弗ナリト云フ、一覧畢テ、工場内ノ倶楽部ニ於テ午飧シ、一場ノ答辞演説ヲ為シ、夫ヨリ市役所・商業会議所・穀物取引所・廃兵院等ヲ一覧シ、取引所ニテ一場ノ挨拶ヲ述ヘ、夕五時旅宿ニ帰ル、晩飧後当地ニ於テ新築セシ公会堂ニ於テ催ス処ノ音楽会ニ抵ル、来会者七・八千人ナリト云フ、頗ル盛会ナリキ、畢テ直ニ汽車ニ搭シテ市俄古ニ向テ発車ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.155掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.38-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
九月二十三日 晴 (木曜日)
午前八時半歓迎委員に迎へられてシカゴ・ミルウオーキー・エンド・セントポール鉄道会社の工場を見る、次ぎに廃兵院を一覧し、夫れより蒸気・電気の汽缶モートルを製造するアリス・チヤルマース会社を一覧す、其構造の大なる、設備の大仕懸にして完全なる、自ら人間知識の無限なる事を悟らしめられたり、聞く処に依れば同社の資本金三千万弗(払込資本千五百万弗)にして、一箇年の事業高弐千五百万弗而して此工場敷地は三十六エーカーにして是と同一の面積を有する工場が紐育、ミネアポリスセントルイス、ボストン及びシカゴの五地に在りと云ふ、一覧了りて高級社員の倶楽部に於て午餐の饗を受く、社長は起ちて、日本実業団の当社を巡覧せられたるを感謝す、渋沢男爵は見る多き(ミルオーキー)と云ふ日本語を以て当社に讚を与へられたるが、畢竟石炭と鉄の価の低きが米国工業の発達を助けたるものにして、其他には深き理由なしと謙譲し、本社は最近二年間に於てゲリーの大鋼鉄工場に二十五台の大なる機関を供給したるのみならず、同期間に之を同社に送付し、之を取立て之を使用し得らる様に為したるが、此機関は何れも一千馬力を有するものなり、本会社の製造品は米国に於て七割、日本に於て二割、英国等に於て一割を需用せられたり、英国は有名なる鉄工業の国なるが、其竜動に於ける水道鉄管は本会社の製造したるものなり。
本会社の特色とすべきは、瓦斯・蒸気・水力に関する種々の機械を凡て一手に製造するに在り、故に或る会社が各種の機関を各国に注文して、運転後種々の故障を起して困難するが如き弊害を除却するを得べし、云々。
次ぎに一行と同行したるウヰスコンシン大学教授ギルマン氏は、此地に於て一行の諸君と分袂するに付き、実業団の諸君に一場の挨拶を述べんとて、過去三週間日本実業団員と起居を共にして、日々厚き芳志を受けたるを深謝す、同行中特に感心したるは諸君が謙徳なる特性を有せらるゝ事なり、一例を挙ぐれば昨夜もフイスター・ホテルに於ける晩餐会に於て、渋沢男爵は知り居らるゝに不拘、予の従事するウヰスコンシン大学のベースボール選手が日本に於て其選手と競技して敗戦したる事を、一言説き及ばざるが如し云々、尚諸君の研究事項に付ては、諸君も中々多忙なるに付き、在米中若し十分取調ることを能はずして、帰国後研究するの必要を生じ質問等せらるゝ事あらば、喜んで出来る丈の尽力を為す積なり云々。
右に対し青渊先生は起ちて、一行に代りて謹で歓待を受けたるを深謝す、本社の参看に当て、多忙なる社長自身案内の労を取られたれは特に深謝する処なり、貴社の広大なるは云ふ迄も無く、如此大会社に在りながら総ての業務整備して、一糸乱れざる事、設備の完全にして能く行届ける事等、貴社に依りて教を受けたる事多し、本日は此会社の原動力とも云ふ可き此倶楽部に於て鄭重なる饗を受けたるが、蓋し此食事は甚大なる滋養分を有し、軈て日本に帰国の上、之が消化せられて、其効果の顕著なるを知る事を得べし云々、又ギルマン氏の袂別の辞に対し、吾々は到る処饗宴を受けたれども、是れ形に顕はれたる馳走なり、されど観察に関する饗応は形に顕はれず、又直に消化するを得ず、此形に顕はれずして、大なる滋養分の効果を顕はすべき饗応を吾々はギルマン氏より与へられたる事を、深く記臆せざるべからず、故に茲に今日は同氏と有形の御別れは為せども、無形の御別れは他日に在り云々、右畢りて先生には午後五時半ホテルに帰る、夕餐の後七時半商業会議所の案内にて、市民が五十万弗を投じて新築したるオーデトリアム(公会堂)落成祝に於て催されたる音楽会に赴き、午後十二時汽車に帰る、午前二時三十分シカゴ市に向て発車す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.160-161掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.176-185

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第十五節 マヂソン及ミルヲーキー市
九月二十三日 (木) 晴
午前八時半一同は自働車に分乗し、西ミルヲーキーに鉄道会社工場を見物し、同十時半よりは、アリス・チャーマー会社に到り、瓦斯機械の各工場を見物の後、十二時半より同社倶楽部に於て午餐を饗せらる。
午後は各自希望の会社・工場に案内され、午後五時頃一同ホテルに帰る。今夕当市のアウヂトリアムに於て、今期の開演式挙行の由にて、一同之れが案内を受く。当夜は米国著名の声楽家マダム・スカーマン・ヘイネック夫人の独唱あり、団長は贈るに花束を以てす。会後直に列車に投ず。
婦人の部 午後一時よりベテヂット夫人方に招かれ、午餐の饗応あり。後美術館及び婦人倶楽部を訪ひ、夕景帰館。夜は男子連と共に音楽会に出席す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.187掲載)


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