「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1911(明治44)年12月16日(土) 渡米実業団第2回記念会〔1〕 - 帝国ホテルでの晩餐会

渋沢栄一 日記 1911(明治44)年 (渋沢子爵家所蔵)

十二月十六日 晴 寒
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、旧渡米実業団員相会シテ紀念会ヲ開ク食卓上数名ノ演説アリ、水野・永井・頭本三氏ハ来賓ノ演説、余ト中野氏トハ主人側ノ演説ニシテ、一同歓呼ノ中ニ散会ス。 ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.468掲載)


竜門雑誌』 第283号 (1911.12) p.44

○渡米実業団の第二回紀念会 青渊先生を委員に仰ぎ、東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の六商業会議所代表議員より成りし旧渡米実業団は、毎年右六地の何れかに於て紀念会を催す筈にて、昨年は四月其第一回を名古屋に開催したるが、本年は東京に於て之を催し、一昨年帰朝日を卜し、去る十二月十六日夜帝国ホテルに於て、米国大使其の他関係諸名士を招待して晩飧会を催し、[後略・12月7日へ]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.468掲載)


『竜門雑誌』 第284号 (1912.01) p.77-79

○渡米実業団紀念会 去る明治四十二年青渊先生を団長に仰ぎ、中野武営氏を委員長とし、一行四十余名を以て組織したる渡米実業団は、秋冬三ケ月に亘り、米大陸各都市を巡回視察して、同年十二月十七日帰朝したるが、此の年 ○明治四四年十二月 の其の紀念すべき日を卜し、第二回紀念会を開きたり、先づ十六日午後七時を期し帝国ホテルに旧団員相会し、当時此の旅行に関係ありし内外の外交官を招待して、盛大なる晩餐会を開催し、青渊先生の発声にて 皇帝陛下及米国大統領閣下の万歳を祝し、夫れより演説に移り、青渊先生は起ちて
  渡米実業団の起つに至りし理由は、只米国の風物を見物する為めにあらず、日米両国の親善を厚ふし、又貿易を増進せんが為なり、思ふに文明国の人民は、啻に自己の利益を図るのみならず、国家の利益を計る責を負担する感念なかるべからず、吾々は常に此意念を脱せず心を尽すときは、仮令政府に於て外交上欠点ありとしても、国民の情緒を以て、之を補ふを得べし。
  吾々が費す処の日子四ケ月、経過したる都市五十三、里行程舟車二万一千哩、而して到る処充分の歓待を受け、米国人に接して心中を吐露し、実に愉快なる旅行を遂げたり。
  此の旅行に次ぎて、爾来米国より日本に観光の為めに来るもの甚多し、是等は孰も善良なる感情を齎らして帰国するが如し、之れ蓋し渡米実業団より連鎖したるものなるが、爾後は益々其の数を増加するならんと思考す、而して同舟の人たりし御互は、益々懇親を深くして、大にしては国家、小にしては相互の為め、永く継続せん事希望に堪へざるなり云々。
大要右の如き演説を為し、次ぎに中野武営氏は団員一同を代表して、先生が団長として尽されたる当年の功労、及び続て来れる米国人に対し、終始不渝尽力せらるゝを謹謝し、日米両国人の交際は実に先生に依りて益々親密に趣くものなりと云ふも過言にあらずと、荘重なる言辞を以て青渊先生に謝辞を呈し、次ぎに青渊先生指名の下に、元紐育総領事たりし水野幸吉氏・現桑港領事永井松三氏・頭本元貞氏の演説ありて、和気曖々たる裡に十二時解散したり、当日の来会者は来賓水野幸吉・田中都吉・永井松三・頭本元貞の諸氏にして、旧団員は青渊先生・中野武営・日比谷平左衛門・佐竹作太郎・岩原謙三・堀越善重郎・小池国三・原林之助・町田徳之助・男爵神田乃武・大橋新太郎・増田明六・加藤辰弥・名取和作・上田禎三(以上東京)大谷嘉兵衛・左右田金作・原竜太・亀田行蔵(以上横浜)大井卜新・岩本栄之助(以上大阪)多木粂次郎・田村新吉(以上神戸)伊藤守松・久保田金遷(以上名古屋)の諸氏なりし。
[後略・12月17日へ]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.468-469掲載)