「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治42)年4月23日(土) 渋沢栄一、神戸高等商業学校で講話

渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)

四月二十三日 曇 軽暖
○上略 十時半再ヒ梅田ニ帰リ、夫ヨリ神戸行ノ汽車ニ搭ス ○中略 高等商業学校ニ抵リ、学生ニ対シテ一場ノ演説ヲ為ス ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.424掲載)


竜門雑誌』 第264号 (1910.05) p.24-27

    ○神戸高等商業学校に於て
                     青渊先生
 左の演説は「青渊先生関西紀行」にもある如く、四月二十三日、神戸高等商業学校の請に応じ、同校生徒の為めに講話せられたる筆記なり
○中略
私は去年アメリカ旅行を致しました、前後四ケ月に渉つて海陸二万一千哩を通過し、其間五十三の都会を視察しました様な大旅行を致しました、旅行中には大学も見た、中学も見た、実業学校も見た、孤児院の様な特殊教育も見た。
さうして是等の教育の状況はといふと、地方により科目により、夫々異つて居る特長を持つて居るのが見える、だが概して見た所、教育の意義が日本と異る所があるやうに思うた、此異なる点に就ては、学ぶ人も教へる人も十分に考ふべき事だと思ふ。
総じて米国では、私設の学校が頗る繁昌して居る、政府や州や市が設立したものは第二流・第三流のもので、却て私設学校に劣つて居る、此原因はと云ふと、私設のものが財源豊富だからであらう、例へばシカゴ大学の如きは、ロツクフエラー等の巨額の醵金がある、こんなに資金の豊富な学校には、善い校長も善い教員も聘用して置くことが出来る、詰り才学のある人物を任用することが出来るから、自然に私設の方が設置万端行届くことになるのである、従て学校の資格も第一流の地位を占める、之に反して官公立の方は、資金の自由が左程に行かぬ所から、第二流・第三流に落ちて来るのであらうと思はれる、実例を挙げて見ると、米国の大学中で、其名の高いハーバードやエール、コロネル、シカゴ、ウヰスコンシンなど、何れも国立でも州立でもない。
日本だとて、富国となるときには、さうなるだらうが、併し之は永遠を期すべき事で、ロツクフエラーの醵金弐千万弗といふやうな、そんな金を我が邦で見るのは、急に出来難いことである、だから此点を外にして、急に学び易い点に就て注意すべきであらう。
尤も私等の視察は、そんなに細かな点にまで及んで居ない。故に話が自然概論になる、併し視察の不足は深く咎めて貰うては困る、実際に於ける視察の状況はといふと、例へば神戸の様な一市に朝九時頃着したと仮定する、さうすると九時半頃迄に朝飯を済せる、夫れが済むと市長やら知事やらに会見する、挨拶がある、終ると直に水道・公園・店舗(例へばデパートメント・ストアの如き)等に案内される、神戸でいふと須磨辺までも自動車で案内される、軈て一ノ谷辺で午餐会がある、午後は学校に行く、大勢の客が大勢の主人に引廻される、其主客が一々細かな質問や答弁を遣つて居ることは、迚も出来ることで無い、斯んな訳だから見る所は多かつたが、観察の細かなることは望まれない、自然皮相的の観察に陥ることもあらう、是も事情己むを得ないのである。
さて此の様な皮相的観察で以て、彼の教育と我のと比較して見ると、日本では其教育法がどうも鋳形詰になつて居る、科目が多過ぎて居る従て卒業が遅くなる、加ふるに日本人は六十以上になると衰へるのだから、三十歳で卒業する人は、働き時が僅に三十年しか無い、是が若し二十で卒業せらるゝものであつて、私の様な七十歳まで働かるれば五十年もある、三十年間と五十年間とは六と十との比例である、日本人の働き得べき力の上に、六が十になり得べしとすれば、夫こそ大変な差が起る訳である。
尤も教育の当局者に聞いて見ると、日本人には特に漢籍といふ障害物がある、更に語源を異にする外国語がある、漢籍も一種の外国語である、こんなに外国語の数種に日本人は苦心せねばならぬから、欧米人のやうに教育年限を縮め難いと言はれる、成程是も一説である、だから私は出来るだけ科目を減じたいと思ふのである、又さうした方が、却て自修の観念が多くなるであらうかと思ふのだ、けれども之は私の今主論とすべき点ではない、尚是以上日本の教育風が、米国のそれに学ぶべき点があると思ふのである、それは日本では、学問上はかうだが事実はかうだと、其処に学問と事実との区別がある、米国には此区別は無い、此区別がない様にならねば、教育は其発達を示したものとは言へない。
どうも学問と実事と一致しない、即ち其間に区別があるといふことは学問が生学問になつて居るからだ、生煮えになつて居るからだ、生煮えだ、又生学問だといふのは、畢竟学問が齟嚼されないからである、齟嚼されないから消化されない、従て吸収されない、滋養にならないこんなでは大層な先生が、折角勤労せられても、功が挙らない訳だから、誠に遺憾至極である、だから教へらるゝものはどうしても、生学問をしない様にせねばならぬ。
種々に比較して見ると、学問の活用には日本人がどうも負けて居る、法律の上に見ても、日本では人間が法律に使はれて居る傾が見える、火災予防法の実行の如き、又銀行の信用を保つ方法の如き、規則は堅く守らねばならないが、元来規則を守るということも、其程度を過ぎては所謂柱に膠して瑟を弾ずるので、学問が不消化に且つ常識に外れるから、此の弊に陥るのだ、学問倒れをするのである、人格が進み常識が発達すれば、こんな学問倒れがない事になる。
尤も米人の仕事は大胆で突飛で、日本人とは正反対なことがある、日本人は常に謙徳を守るのに、彼れ米人は反対に自己を吹聴するに勉める、だから自分の店は米国一だ、此工場は世界一だなどいふ説明に出逢つた事が甚だ多い、極端なものになると、チツポケな市の人が其市を誇らんが為めに、我市は人間が少いけれども其割に仕事が多い、是が他に類がないことだなどといふ、又或る処で瘋癲病院に往つて見ると、是が米国第一の瘋癲病院だと説いて居る、考へ様に依ると、何だか瘋癲の多いのが自慢の種になつて居る様にもある、或は又亭主が其細君を天下一の美人と紹介するもあれば、細君が其夫を押除けて喋舌るのもある、こんなに随分甚しいのがある、謙徳は何処に在るのか分らぬ程突飛で大胆である、私は是等が皆日本人の学ぶべき長所であると言ふのではない、けれども是等米人の学問に関する注意は、甚だ良好だと称賛するを憚らない。
第二に米人が突飛で大胆であるに反して、学問を重ずることは大に日本人と異つて居る。彼等は学理を重んずるが故に、深く量り遠く慮りて事物を処理して居る、是れ米国の駸々として進む所以である、之に反して生学問をしてヘボ見識に満足すれば、却つて之が進運を阻害することになる、かうなつては折角学問しても、父兄・教員及び自分の勤労に報ひない結果に陥つて仕まう、だから学問はなるべく能く消化するやうに注意して、所謂学問負けをせぬ様にせねばならない、又学問の進歩と共に、人格常識を並行して進歩せしめねばならぬ。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.443-445掲載)