「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治43)年4月30日(土) 渋沢栄一、埼玉学生誘掖会寄宿舎茶話会で演説

渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)

四月三十日 晴 暖
○上略 六時牛込埼王学生誘掖会ニ抵リ、学生ノ催ニ係ル茶話会ニ出席ス[、]先ツ寄宿舎ヲ一覧シ、学生ト共ニ夜飧シ、後一場ノ講話ヲ為ス、米国旅行談ニ加ヘテ、修学上精神修養ニ関スル要旨ヲ談ス ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.424-425掲載)


竜門雑誌』 第267号 (1910.08) p.26-30

    ○埼玉学生誘掖会に於て
 本篇は青渊先生が本年四月三十日埼玉学生誘掖会茶話会の需めに応じ、同日同会に臨みて演説せられたる要領なり
本日は寄宿舎の茶話会でありまして、若い方々の面白い話を承りまして、実に愉快でありました。本年の二月十一日の学友会大会に出席して私の渡米談を致す筈でありましたが、丁度折悪しく病気で参る事が出来なかつたのは残念でありました。今晩は其渡米談を致す事にします。然し渡米談は後廻しとして、先づ、諸君に一応御話致す事があります。○中略 之れより渡米の御話を致しませう。扠て昨年の秋実業団の旅行は、出発前の予想以上に歓迎せられました。其の旅行の有様は、既に種々の新聞に書かれましたから御承知だらうと思ひますが、幸ひ誘掖会寄宿舎生の方と、今晩会合致しましたから、改めて御話致します。団体の旅行は八月十九日に横浜を解纜し、八月三十一日シヤトル着、九月一日同市に上陸し、終りは十一月三十日桑港にて汽船に乗組んだので、此間汽車にて西より東、東より西に、行程一万八百余哩にして、訪問したる都市五十三、滞在日数最も長きはニユーヨークに十日、シヤトル五日、シカゴ四日であります、大抵の処は一日若しくは宿らずに到着早々見出し、直に其晩汽車に投じて他所へ向け出発致しました、五十三の都市を訪問するに最初詳細なる時間表を与へられましたが、元来旅行は予め日数・時間を決定するは必要なる事ではありますが、長期の旅行には、却つて困却する事なきにしもあらずでありました、此度の旅行の如き米国の歓迎委員の世話にて、汽車を「ホテル」とし、夜は旅行しつゝ眠り、昼間或る市に着くや否や歓迎会に招待され、少くとも二・三の演説あり、多きは一日に四・五回にも及ぶと云ふ有様で、休息の時間は毛頭ない、見る目は楽しけれども、走り廻る身体は非常に疲れます、又夜になれば直ぐ出掛ける、帰りは午前一時にもなる事もあります、これでも送つて来た人あれば答礼の三鞭酒でも出して談話する、これが済んで床に入る、目が覚むれば又直ぐ仕度して出掛ける、毎日同じ事を繰り返す、之れが九十日間続くのだから、実に目の廻る程多忙であつた、兎に角斯うして見物もし用向も済しまするので、其の忙はしさ一通りではありませぬ、初めシヤトルに着いて歓迎会に臨んだ時、未だ夏の事ではあり、非常に暑くて卒倒するかと思ふた位でありました、列席の人々に挨拶するのに順に整列して(先方の人々が)待つて居るから、当方は一端から一々順次に手を握り合ふて姓名を云ひかはす、人数は多し、殊に私は団長と云ふので真先に握られる、身の丈高き洋人の数多の中で居るので、暑くて堪へられぬ、実に其の苦しさは非常でありました、シヤトルでは着した三日目に「日本デー」と云て大歓迎であつた、大分多数の人が集り、四名の演説を聞きました、引続き政府の建物の中で宴会がありましたが、建物が新造ですからペンキの悪臭は鼻をつく、天井低く風通り悪く、それはそれは実に苦しい思ひをしました、同行の婦人等は殊に困難の様子でした、これが終つて直ぐ又大会堂でレセプシヨンあり、人数凡そ五・六百人位あつたが、之れが一人一人手を握る、私は余り語学は出来ぬ、実につらい思ひをしました、今後の社会には語学は是非必要であります、舎生諸子も一生懸命に語学を勉強すべきであります、初めての土地へ九十日も旅行する事故、愉快なるは素よりの事なれど今度の旅は米人が一見旧知の如く種々丁寧親切につくしてくれ、一行心おきなく打語らい、実に心地よい事でありました、又或る市では自動車数十台に私等を乗せ、之れを連ねて騎馬巡査が先頭で、衆人の前を得意に走り廻つた事抔は、とても日本では見られぬ図でありました[、]米人と話して見るに、日本人が日本は世界に知れ渡れりと考ふる程、日本を解して居りません「日本には斯る物なかるべし」等の言葉は、決して吾人を侮辱せるものにあらずして、全く日本を知らざるに原因するのであります。
一行は米国大統領タフト氏其他米国政治家又は実業家等米国の有名なる人々と面会しました、斯くて両国の交誼を温むるに勉めて、吾人が絶大の名誉を博したるは実に喜びに堪へませぬであります、此の旅行の基因を述べんに、明治四十年に於て米国太平洋沿岸の人々が来邦せし時、本邦の人々が各所に於て歓迎し、彼等に与へたる情誼厚かりし為め、之れに対し謝意を表せんとて彼国より我が外務省に招待状を送つて来たのに始まり、又我々実業家が彼の太平洋沿岸の一部に排日の思想のあるを幾分なりとも鎮静し、両国の親善を増進し、其の通商を発展せしめん目的に外ならんのであります、故に其の人選も相当の資格あるものを集めて行きましたから、之が彼れより厚く歓迎せられし一原因なるも、尚我が帝国の威信が彼の国に宣揚し、帝国に対し尊崇の念を深からしめたる反響が、吾人一行の頭上に及びしものなるは、争ふべからざる事実であります、真に痛快の極みでありました。
終りに教育の事を述べませう、米人は平民主義にて、自己の得たる富を多く学校に寄附しますから、私立に随分立派なるものがあります、図書館の如きも、私立にて大なる完備を有するものがあります、米国人が私財を以て教育を扶助し進歩せしめつゝあるは、実に称讚すべきことではありませんか、大なる資金を要する学校は、大概実業家の補翼に成つて居る、教育ある実業家は又教育の盛大を望む、両々相待つて以て因果の関係をなして米国の社会を進歩せしめつゝあるのであります、実に米国民は前にも云ふ様に平民主義なるが故に、官立の学校は余り勢力なく、盛大なる学校は皆な私立である、スタンフオルド大学・シカゴ大学・ウエスコンシン大学・イサカ大学・エール大学・ハバート大学・フイラドルヒヤ大学の如き、有名なるは皆な私立大学であります、米国は新開の大国丈けありて、種々の天然産物に富み、その産業組織の新式にして、規模の大なるには驚きました、吾人一行が始めて米国の太平洋沿岸に上陸するや、鬱蒼たる森林に驚き、内地に入りては宏大なる鉄脈、従つて其採掘方法の新式偉大なるに驚き、石炭も多く、銅の製錬の方法の大規摸にして、巧妙なる学理を遺憾なく応用せる抔は、到底日本人の夢想も出来ざる所であります、広茫たる耕地に、大農主義にて耕作する農夫を見て、米国の国富はこゝに在りと感じ、実に羨望の至りでありました、進んで大西洋沿岸方面に向ふに至つては、大工場所々に多く煙突林立し、黒煙濛々天日尚暗き有様を見て、我が日本の現状と比して、感慨無量でありました、尚ほ種々話したき事がありますが、段々時間も経ちますから、之れにて止めませう。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.446-448掲載)