「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治43)年4月4日(月) 渋沢栄一、八基村(やつもとむら)教育会第2回総会で演説

竜門雑誌』 第264号 (1910.05) p.5-19

    ○八基村教育会に於て
                     青渊先生
 本篇は本年四月四日、青渊先生が其郷里八基村教育会の招請に応して臨席せられ、同日開会の同会第二回総会に於て演説せられたるものなり
○中略 先づ第一に亜米利加旅行談をお話致して見やうと思ひます。
日本と亜米利加の国交の追々に親善に進んで参りますることは、私が玆に政治家らしう、抑々安政元年にコンモンド・ペリーが来て通商のことを談判したなどゝ、喋々と講釈めかしてお話する必要はないが、併し私一身から考へまするといふと、大変にそれが反照して面白い話になるのである、お集りのお方々は、先刻の頌歯会に列した人は別段として、其他のお人は多くは壮年若くは青年であるから、昔のことを知つたお人はそれこそ寥々、晨星の如しである、が血洗島も昔時は、外国関係に付ては、それこそ大騒動を惹起さるとまで、村民多数ではなかつたが、或る一部分は思ふた程であるのです、独り当村ばかりではない、其頃の外交といふ問題は、諸藩士とか若くは学生とか、江戸に京都に、さういふ都会にのみあつた問題ではなくて、殆と国を挙げて憂国の人々が皆論じたのである、忘れも致さぬ嘉永六年亜米利加からコンモンド・ペリーと云ふ人が国書を携へて浦賀へ来て、久里浜で此国書を受取つたのは其年の六月である、引続いて其翌安政元年一月嘉永でいふと七年である、丁度私は十四の年であつた、再びコンモンド・ペリーが日本へ来て、遂に此通商条約と云ふものが、追々に成立して参つて、日本が外国と云ふものを知つたのは其時が始めである、尤も其前からし支那・天竺若くは和蘭等の修交は、三百年も以前から続いて居りましたけれども、徳川氏の政治を執るに際して、どうしても外交は閉すが宜い、通商をば断絶するが宜いといふので、僅に長崎だけを限られて、日本人は総て海外へ行くこともならず、来つても直接な交際はさせぬと云ふ制度であつた、亜米利加が強い覚悟を以て、若も日本が絶対的に拒絶をするなれば、已むを得ねば干戈にも訴へんといふて来られたに依つて、其時の徳川家の、老中の筆頭は誰であつたかと云ふと、福山に十一万石を領して居つた阿部伊勢守正弘で、此人が重に其衝に当つて、遂に亜米利加と和親通商といふことに相成たのである、其和親通商は徳川氏が外交を誤つたのでなかつたやうであるけれども、其処置が頗る曖昧であつた、頗る姑息であつた、而して征夷将軍と云ふ職分を持ちながら其職分を尽さぬのみならず朝廷の命令も聴かず、武士たる職分も尽さぬといふからして、世間で段々に議論するやうに相成つて終に攘夷鎖港と云ふことが到る処に起つて参つた、併し能く吟味して見ると、亜米利加の通商を求め修交を望んだのは、決して日本を掠奪しやうとか日本を征服しやうとか云ふやうな意志で来たのではなかつた、唯有無を通じ商売を盛にするのが総ての国民の発達を図る所以であると云ふだけの、誠に善良な心懸を以て参られたのだけれども、併し其時分来た亜米利加以外の国も皆それであつたとは申されぬ訳であつたのです、其時の国々の状態を判然と今玆に申上げる程詳かに私も存ぜぬが、併し或北方の国などから来たのは、アワ宜くば、我領土にしやう侵略しやうと云ふ、野心を持つて居つたかも知れぬのである、故に正邪善悪を鑑別することの出来ない一般の日本人は、事情に通せぬからして、此外国の通商が徳川氏の処置宜しきを失つたのであると言ふて、総て幕府の政治に反抗を企てたのである、前に申した血洗島の鎖港議論がなかなか八釜しかつたといふ私は其八釜しいことを申した一人であつた、但し私一人が申したのではない、苟も志ある人は皆是は大変だ、国家危急存亡の秋であると思ふたのです、私共の覚悟はなかなか是は国家の大事だ、畑を耕しては居られぬ、田を鋤いても居られぬ、蚕も出来ぬ、国が潰れる、斯う云ふ観念を以て騒いだ、今見ると少し子供らしい、子供らしいと云ふよりは何か事を好む野心家の如く誤解されたかも知れませぬが、決してさう云ふ訳ではない、其時の精神は、唯国家が大事だ、此儘に措いたら、悪くすると外国に取られてしまひはせぬか、夷狄禽獣とも思ふ醜夷に征服されるやうなことがあつたら、二千五百年の金甌無闕の国家をして、実に情ない有様に立至らしめはせぬかと云ふことが、志ある人の大なる心配であつたので、畢竟私共血洗島に農業を経営して居ることが出来ぬで、今日此処へ出ましても朝に晩に御目に懸らぬやうな境涯になつたのも、源を質せばそれから起つたのでありまして、私一身が何か他所へ出て、栄達がしたいとか、金儲をしたいとか云ふやうな料見で故郷を離れたのではございませぬ、物変り星移つて今日となるとどう云ふ料見で家を出懸けたのか、如何なる訳で、血洗島の百姓が為し得られなんだかとお疑がありませうが、私の一身はさういふ覚悟で家を出たのである、而して其時は此血洗島のみならず、八基村にある青年が皆同じ考を持つて同じ行動をしたのでありますから、仮令其時の村中が挙つて力を併せたで無うても、血洗島の村と云ふものは、亜米利加の通商に対しては、五十数年以前に大なる関係があつたと申しても、決して過言でないのであります、而して其一人の私が遂に大に変化して、明治四十二年には、日本から出る所の商売人の仲間、名けて渡米実業団と唱へた所の団長として、亜米利加を旅行したと云ふのでありますから、事物の変遷と云ふものは、頗る奇妙なものだと、申して宜からうと思ふのであります。
少し前置が長くなつて、お話が脇に外れたやうでありますが、亜米利加へ行つた渋沢が、元とさういふ人であつたと云ふことは、他の地方へ行つてお話すると何でもないが、此血洗島に於ては若いお方は、成程ソンなことがあつたか、己れは祖父さんから能く聴かなかつたといふお人もありませうけれども、今私が、申上げることは決して虚構のことではない、といふことは、其頃の事実を知つたお方にお尋なさると明かに解ることであります。(拍手)
昨年亜米利加に参りました人々が、婦人まで併せて確か五十三人でありました、此旅行の起りました原因は、一昨年東京・大阪・京都・神戸・横浜の五商業会議所からして、亜米利加に向つて日本に商業視察旁々遊びにお出なさらぬかといふ案内をしたのである、其場所は太平洋沿岸即ち桑港、オークランド、ローサンゼルス、サンチヤゴ、又北の方ではシヤトル、タコマ、ポルトランド、スポーケン、此八箇所に向つて案内状を出したのである、其案内状を出したのはどう云ふ理由であるかと申すと、近頃新聞でも御覧でありませうが、日本から渡る所の労働的の人々が、カリホルニヤ州に於て、亜米利加人と能く融和しないのです、向ふの労働的団体が、日本から行つて働く人を酷く嫌うて、或る場合には不法の行動をする、独り不法の行動のあるばかりでなく、或は州の議会に、若くは国の議会に、我労働者の渡米禁止問題を屡々出す、続いて新聞紙などは、日本は戦争の好きな国だ、日本は我儘な強い国だ、満洲の処置でも、露西亜と戦争をして之を追退けたのは宜いけれども、露西亜を追退けたのは露西亜の横暴を防ぐためである、然るに暴を以て暴に換へる日本は、矢張露西亜と同じやうな勝手をする、さうして戦争は強い、戦争は強いが国は貧乏だ、貧乏で戦争の強いのは誠に手に合はぬ、お互でも貧乏で無暗に腕の強い奴が酒でも飲んで押掛けて来られると、甚だ迷惑すると云ふやうな有様に感じられる嫌があつたので、我政治家も大に之を憂へ、実業界でも心配して、自ら融和を図るために、どうぞ日本の実地を見せたら宜からうといふのが、今申す八箇所に向つて日本の五商業会議所が、是非日本を遊覧なさいと云つて招待状を発した訳であつた、そこで一昨年の秋、五十人計りの人々を纏めて、彼の国から実業団が参つた、私は昔東京商業会議所の会頭をして居つたが、明治三十七年の病気から少し用向を減じたいと思うて、商業会議所を辞退しまして、亜米利加からの旅行者のある頃には、商業会議所の関係はございませなんだけれども、現に商業会議所に出て居る人々とは懇意でありますから、是非今度のお客に対しては、各商業会議所の補助役に立つて来客の接待をもして呉れ、場合に依つては私の宅にも招いて遠来の珍客を饗応して欲しいと云ふやうな依頼を受けて、そこで九月であつたか、十月頃であつたか、一日私の王子の宅へも此人々を招いで、丁寧な饗応をも為し又情意を尽した言葉を以て、其来賓に歓迎の辞を述べたこともあります、それらの事柄が追々に――独り其事ばかりではありませぬけれども、亜米利加人から渋沢と云ふことを聞き知るやうにも相成り、且つ丁度其頃ほひに、太平洋艦隊が日本を訪問された、前に参られたのはペリーであつたが、今度の艦隊長はスペリーと云ふ人、十七隻の艦隊を率ゐて参られました、実業家の来られたと相前後して居つたから、日本人は各所に於て此艦隊にも十分な歓迎をした、相待つてそれらの事柄が亜米利加の実業家、若くは政治家の間に大層に能く聞えて、誠に日本といふ国は亜米利加との交情が密である、又客を愛する情が甚だ切実である、老人も若い人も子供も、打挙つて亜米利加の珍客を皆喜んで迎へたといふことが大に申伝つた、引続いて今度は、先方から日本人を招かうと云ふことになつて、其始めは北部の方、即ち太平洋沿岸でも北に属する側で四箇所、前にも申しましたがシヤトル、タコマ、ポートランド、スポーケン、是は日本で例へて云へば、横浜とか若くは名古屋とかいふやうな場所です、それから同じ太平洋に接して居つても、もつと南の方の商業会議所のある所で桑港、オークランド、ローサンゼルス、サンチヤゴ、此八箇所が申合せて、今度は日本の方を招くことに相成つた、招かれたのは商業会議所でありましたけれども、唯単に商業会議所の会頭と云ふばかりであつては、日本を代表するやうな意味に取られぬ、是非これは東京に於ける商業界に、過去に現在に相当なる功労もあり、名誉もあり、又海外――独り亜米利加ばかりでなしに、欧米に向つて多少名の聞えて居る人を出さなければ、成程日本が良い顔触を以て此招きに応じたと言はれぬやうになる、さうなれば向ふへ行つても何だか申訳に寄越したと云ふやうになつて、切角の応答礼問も効能が薄くなるといふので、商業会議所の連中と政治家の側では、外務大臣を始め外務省の重なる人が誰彼と種々なる評議を致して、遂に其結果、私に是非立つやうにと云ふことの相談を受けたのであります、私ももう去年七十である、大分身体も弱つて居まするし、聞きますると、其旅行がなかなかに骨折れさうでもございます、元来言葉は通じませず、仏蘭西語は僅かに話しますけれども、是も自由とはいかぬ、どうもさういふ責任を持つのは困難でございますので、切に御免を蒙らうと思うて、最初三月頃から其話が始つて三箇月ばかり、もう三日置き五日置きに外務大臣とか次官とか、一方には商業会議所の人々が種々なる方面から勧誘されましたが、否々と申して努めて之を避けて居つたのです、所が段々日も迫つて来る、然るべき人を是非選定しなければならぬが、さて多数を選定する前に主脳に立つ人が定まらぬと、申さば方針が立たぬといふやうな訳でございまして、唯一意私の動くことを頻に忠告すると云ふやうな有様から、甚だ自分も窮した、所が忘れも致しませぬ、六月十五日であつた、其前からして私は、東京で官途を罷めてから、先づ第一銀行を創立して之が経営をして居りました、其後に種々なる会社或は銀行等にこの創設此世話と申すので、殆ど其数を申しましたら三十余も関係をして居りましたが、段々年も取りますから、さう老後にまで多く関係をして居るのは自らも面白くないと思ふた、親戚も止めた、旁々総てを謝絶致す積りで、丁度、昨年の六月四日《(六)》であつたか、思ひ起して、関係の諸会社に総て辞退のことを申出して居つた、それらのことに就て同月十五日に、東京の重なる会社、事業に従事する人々が――或は日本銀行の総裁とか、又た三井銀行の人とか、三菱の人とか、興業銀行の人とか、商業会議所の会頭とか云ふやうな、東京に於ける有力の実業社会の人々が二十余名集つて、私の身上に就て評議をした末に、其辞退のことは先づ別段として、兎に角亜米利加旅行には、どうも外に然るべき人が無いから、年は取つて居る、言葉は通ぜぬといふて居るけれども、健康がそれ程勝れぬとまでも言はれぬやうであるから、是非あの男を推さうぢやないかといふことに、評論がそこへ落ちて、遂に議が一致したに就て、丁度其日に千家尊福高橋是清の両男爵、それから東京商業会議所会頭の中野武営、此三君が其仲間から委員として選まれて来たから、何でも無理にも承諾を請ひたいと申して参られまして玆に初めて私が退引ならぬ場合に至つたので、已むを得ぬから、然らばお請を致さうと申して、漸く旅行の意思を決定致したのでありますそれですから、話の始つたのは三月頃であつたが、私の覚悟をしたのは六月十五日であつた、出立したのが八月十九日である、六月に其事が決定しましたから、遂に東京に大阪に京都に横浜に神戸に、続いて名古屋に此六箇所の人々が、前に申す通、正賓と唱へる人が十七名、専門家と唱へる人が十七名ばかり、併せて三十四・五人、御婦人が四[・]五名、随行員が七・八名、丁度五十三人と相成つたと覚えて居りますそこで相一致して、成るべく此行動に矛盾のないやうにしたいと云ふから、団長を造つて総て団長の指図に依り、団長が団体を代表するといふ体裁にして此旅行を完全に遂げるやうにしやうと云ふことに相成つて、八月出立前に手続が定りました、之が先づ其旅立に属する一の順序である。
右やうな旅行でありますから、諸方の送別も、随分盛んでありましたが、唯普通の送別のみならず、八月十七日、即ち出立二日前に芝の離宮で、特に官内大臣をして午餐の宴を賜つた等のことも、此旅行が唯普通の伊勢参宮的で無かつたといふことを証拠立て得られるであらうと思ふ。
乗つた船は「ミネソタ」号でありまして、九月一日にシヤトルへ著致しました、それからして前に申した案内をした所、即ち主人の位置に居る商業会議所、又其商業会議所が誘うて、其誘ひに応じて、亭主方となつて、日本人を招かうと云ふ場所、それを残らず数へて見ますと五十三箇所である、此五十三箇所を悉く訪問して、中には三日或は五日、極く長い場所は紐育で十日間居りました、又一日で済ました所もある、一日といふよりは、一寸寄つて直さま又脇の都市へ行つたといふやうな場所もある、故に其長短は各市に於て違つて居ますけれども兎に角其大都市を五十三程訪問して、何れの場所も相当なる歓迎を蒙り、尽く先方から歓迎辞を述べられますから、是に対する答辞を述べなければならぬ、それが唯一席で済むと宜うございますけれども、場所に依ると一日に三回位やらせられることがある、私はもう際限なく――殆ど演説を幾度したか宜う覚えても居りませぬが、少くも二百遍位は此旅行中したらうと思ふのです、それ程演説をしましたが、相変らず矢張下手で、どうも巧くは申上げられませぬから、是はなんぼ遣つても巧くいかぬものと見へます、殊に斯ういふ場所でありますと、中には少し私の言葉の解り兼る方もあらつしやいませうが、大概は御了解下さるであらう、所が亜米利加では誰にも解らぬ、(笑)脇に通訳をして呉れる人が居りますが、何だか調子の悪いもので、丁度聾に話をするやうなものである、此方が大層張込んで愉快にやつて見ても其時は解らぬからカーンとして居る(笑)此方の演説が済んで、後で通訳をするとパチパチ手を拍く、何の為に手を拍くのか、可笑しくつて拍くのか嬉しくつて拍くのか、時々調子違ひのことがあつて、なかなかに旅行中の演説も、或る場合には間抜けたこともあつたのでございます、それから比較すると、故郷ではあり、言葉は通ずるし、誠に愉快である、今日は仮令皆様が退屈なさつても、私の話の済むまではなかなか帰さない(笑)丁度東京で下手の義太夫語が、戸を閉めて無理に聴かせたとかいふ話があるが、私も今日は其位の覚悟を持つて居りますから、其積りで御聴き下さい。(拍手)
五十三箇所の都市を廻ります順序といふものが、色々区々でありました、又其五十三箇所の事を残らずお話をなす訳には参りませぬが、実に鄭重なものでありまして、亜米利加人の日本の賓客を愛すること、又客に対する接遇の念の入つて居ること、実に私は敬服しました、先づ其一斑を申すと、商工業の発達の模様とか、或は国民の襟度が快闊であるとか、学問を重んずるとか申すやうな、賞讚すべき廉々から申すと、なかなかにお話が長くなりますが、先づ概略向ふの景況をお話致しませう。
今度の旅行は特に汽車を別に誂へ、シヤトルからして汽車に乗つて、出掛けたのが九月の五日です、此五日から十一月の三十日まで、ズッと同汽車で旅行をしたのです、所が日本の汽車でお考になると、汽車旅行はどんな塩梅であろうかと一寸想像が付き兼ませうが、彼の寝台車――寝台車も日本の寝台車より広い、亜米利加のは四尺八寸のゲージですから、日本の三尺六寸から見るとズッと広い、それにもう一つ幅が延して取つてありますから、殆んど汽車の一室が小さうても一部屋になつて居つて、それが皆銘々戸が締るやうになつて居る、其列車に総体の一行――吾々共は五十幾人であつたが、彼地で附いて歩いた人が十幾人、其他汽車に乗込んで居る人々、或は汽車の世話をする車掌と云ふやうな種類の人、総てを併せたら百二・三十人、若くは百五十人も乗つて居りましたらう、其汽車の一と構が全く吾々の住居で一行の外には一人も這入つて居らぬ、私は団長といふから――従者もありましたが三つ部屋を取つて、さうして其三つの室を我家として、始終其汽車に乗つて旅をする、先づ深谷の駅へ来て血洗島を訪ねるといふ場合と仮定すると、汽車が停車場へ来る、直さま血洗島から自動車が――血洗島にはそんなものは無いが、自動車が四・五十台位ズツと停車場へ来る、朝九時という約束であると七時頃に着きます、汽車の中で朝飯をしまひ、朝飯をしまふと歓迎委員の人々が自動車で迎へに来る、それへ皆分けて乗つてお諏訪様へ行くとか、鹿島様へ行くとか或は学校へ行くとか、方々をズツと乗廻して、さうして場所に依ると多くは市役所へ寄る、市役所といふてもなかなか深谷の町長さんの居る所よりはズツと広い、大きなものです、其処へ行くと少くも百人位寄つて居ますが、そこで歓迎の辞がある、御馳走も何もない、唯寄つて能く来たといふ辞を掛ける、そこで代表者が答詞をしなければならぬ、それから学校を見るとか、工場を見るとか、或は公園を見るとかして、多くは田舎に倶楽部がある、其倶楽部で昼飯を食べる、さういふ振合であつて、倶楽部へ行つて見ると、予て案内がしてありますから、其処に倶楽部会員が百人、百五十人、若くは三百人も寄つて居ることがある、午餐といふものはそれ程丁寧のものではありませぬ、が又場所に依つては大変丁寧の所もある、中には又至つて簡略の所もある、相集つて手を握り、是は誰である、是は誰であると言うて、殊に私は団長の位置に居りましたから、種々なる人が来て手を握つて、斯う云ふ訳である、あゝいふ事である、亜米利加をどう見る、亜米利加で何を吃驚した、亜米利加には斯ういふものがある、是から先き十分に見せると云ふやうな話が段々ある、彼是と話をして居る中に、食堂が宜いからというので食事場へ案内される、食事が済むと後から演説で、此方も一人二人挨拶をしなければならぬが、事に依ると昼でも五人位の演説がある、だから昼飯の終るのは大低三時四時位になる、それから又電灯或は瓦斯工場と云ふやうな、種々なる其土地の名物を見せられて、さうして其晩汽車へ帰つて着物を着換えて――燕尾服に勲章などを附けて、所謂正服に改めて、今度は又晩餐会へ出掛けて行く此晩餐会の席は多くは立派なホテル、或は特に設けた会堂などもあります、又は斯やうな一個人の誰某の家で開かれることもある、此晩餐会が又昼から見ると更に演説が多い、大抵どう早く終つても午前一時過ぎ位になる、それから又直ぐ汽車へ帰つて来る、汽車へ帰つてやつと着物を脱いで寝衣に換へやうとすると、汽車がゴロゴロ出掛ける、又其翌朝もさういふ塩梅だ、毎日さういふ有様で五十三日を経過したと申して宜しい、其見物をしました中で、特に鉱山に就て、アナコンダと云ふ所で銅の精煉所を見たとか、或はビユーテと云ふ所で其銅を掘出す坑区を見たとか、或はフィビングと云ふ所で鉄の鉱山を見た、又シカゴのゲリーと云ふ所で製鉄所を見た、或はグランドフオークと云ふ所で大きな農場を見た、又シカゴの市で「ストツクヤード」と云ふ牛豚若くは羊などを殺す大工場を見た、其他水道、火災の予防法、或は東京にも近頃あります三越などのやうな「デパートメント・ストアー」と申しまして、何品に拘らず一の店で総てのものを間に合せると云ふ組織の商店です、之が大概一市には二箇所三箇所づゝあつて、而も壮大なものである、殆とグルグル廻ると、一日廻つても同じやうで、出るのか這入るのか分らぬやうな有様である、さういふ所を総て見物するので、さうして或る都市に於ては有力なる人が出て、種々なる話をして聴かせる、殊に驚いたのは今申す「フィビング」の鉄山です、実に壮んなもので、どうしてあのやうな盛大な鉄鉱があるものかと思ふ位でした、其鉄の原料に依つて、重に製鉄をして居るのが、さう遠くはないやうですが、シカゴの新規に出来た、鋼鉄工場、又以前からある、ピッツバークのカーネギー工場、是等の製鉄の工業といふものは実に驚き入つたものである、先づ各地を巡廻して御馳走を受け歓迎をされた有様は前に申す通で、又工業の模様は、独り鉱山ばかりでなしに、諸工業の模様は残らずの各都市に、悉く大工業があるとは申しませぬが、所々に有名な大工場がある、其工場を尽く丁寧に見せられ、或る場合には至つて物が簡易でありますが、或る場合には又物が余り鄭重である、或る場合には至つて物が粗雑であるが、或場合には如何にも宏大である、先づ亜米利加の総ての事物は、殆ど日本の人人などから見ると一寸端倪すべからず、甚だ比較し悪い有様が多いのです、其大きな有様に就て無用とでも思ふことを二・三お話すると、華盛頓の停車場です、これは以前参つたときには無かつたが、今度は立派に出来て居つた、停車場に這入る鉄道線路が、三十三線ばかりある、それが皆停車場の屋根の構内に線路が這入つて居るから、殆ど大きな原みたやうに見える、それ程列車が這入つて居るか、どうかといふと、些とも這入つてゐない、華盛頓といふ所は政治の都府で、決して其やうに貨物の沢山輻輳する所ではない、併しペンシルベニヤ中央線、其他四線ばかりの大鉄道が、どうしても政治の中心だから、一つ聯絡を附けて置かなければならぬといふので、何でも政府から四百万弗か補助を仰きて、さうして中央聯絡線を設けてあるが、人は沢山来ず、貨物は其やうに無いから、左様に沢山線路は幅輳して居るが、車は誠に寂寥たるものである、又其構造が大抵大理石で出来て居る、殆ど私共行つて見ると、東宮御所と停車場と間違へる位である、前の庭などは誠に塵一つもなく椅麓で、青々と芝が生えてズツと広い、なぜアンナ詰らぬことをしたものか、立派ではあるけれども、殆ど銭の使ひ場がなくてアンナことをするであらうと言ひたい位で、少し無用の長物といふ感があるのです、又一の例は、費府に慈善事業の「ジラートコレージ」と云ふものがある、之が千五百の棄児を収容して居る所です、所が其棄児の扱方が、迚も大金持の息子さんでも、あれ程丁寧の扱ひはされまいと思ふ位の待遇をして居る、是等は先づ亜米利加の鄭重に失すると思ふ著しき例である、さればさういふ風に総てのことが皆鄭重かと思ふと、又思ひの外簡略のことがある、饗応の仕方も其通である、前に申した壮んなる鉄工所の直ぐ近くに、ダルーズと云ふ所がある、レーキ・スーペリオルと云ふ湖水の側で、其処へ一日招かれたときに、其湖水から白い魚が取れる、それを御馳走するといふ触込であつたから、大層御馳走があることゝ心得て行つて見ると、成程白魚と云ふものは呉れたけれども、それより外に何もない(笑)水ばかりで酒もない、大に当が違つて、まだ何か出るだらうと思つてゐると、麺麭の食懸も何も皆給仕が持つて行つてしまつて食ふことが出来ない、後でホテルへ行つてソツプの飲直しをしたと云ふやうな滑稽がある(笑)そこで彼地の饗応の仕ざま、接待の仕方が大変簡略のこともあるといふのが、先づ亜米利加の有様です、人の客に対する待遇も尚然りで、えらい鄭重のことを遣るかと思ふと至つて真率である、日本などゝはまるで反対といふ点が多いのです、御互に日本人は成るべくたけ自ら云ふことを卑下する、所謂謙徳を守るといふて、ちよつとしても、いえどう致しましてと、己れのことを卑下するを一の礼儀としてある、反対に亜米利加は己れのことを誇るを礼儀ともしますまいけれども、習慣として居る、甚だしきは自分の細君を日本一――日本一とは言はぬ、亜米利加一の婦人だと云ふ(笑)それはまるで戯れに言ふかと思ふと、決して戯れではない、笑ひも何もせずに、今日は近頃あなたの見たことのない、美人をお目に懸ける、そこで手を握られて、是ですと云ふのが自分の細君です、さういふやうな有様で、真率と申せば真率、乱暴と申せば乱暴で、兎角自国のことを自慢に思うて居る、ですから、亜米利加を旅行して居ると、毎日亜米利加一に出会す(笑)これが亜米利加一だ、中には世界一もあります、笑ひますと向ふも笑つて、是は亜米利加人の癖ですなどゝ云ふて、さう云ふことはトント構はぬ、そこらに至ると東洋主義、殊に日本の国などから行つて見ると、人が皆平等で階級などを構はぬから、人に対する遠慮が極く少ない、さうして我意思を人の前で表白することが極く無作法である、それに引替え、此方では一寸したことでも遠慮するからして、大いに総ての点に於て調子の違ふことがあります、が併し何に致せ、一体の国力は実に盛んなものであつて、前にも申す通り、鉱物であれ森林であれ、総ての天産物が甚だ富んで居る、之れに人工を加へ機械を応用し、盛んに其の富源を開発する、そこで人が至つて敢為で、又大胆です、敢為で大胆でありながら、頗る学文を重んじます、此の学文を重ずるといふからして、総ての設備が唯だ乱暴に流れない、先づ経済社会に於ては、あれ位に急激に進歩した国は殆んど稀であるといふことは、欧羅巴人も申して居りますし、私共見ても、何れの地方も僅かの歳月に非常なる進歩を為したといふのは、真に驚き入るやうでございます。
殊に農業に就て、亜米利加人の最も力を入れて居ることを玆に申添へて、此地方などで十分御注意を請ひたいと思ひます、セントポールと云ふ所にゼームスヒルと云ふ人がある、此人の演説筆記は、今日学校の図書館に二・三冊差出して置きましたから、其中どうぞ皆様が御覧下さつたら、私は仕合せに存じますが、此ゼームスヒルと云ふ人は、其履歴を申すと、元と鉄道工夫的の人であつた、果して工夫であつたかどうか知りませぬが、今年七十三で私より二つ上です、今度セントポールで面会をして色々話をして見ましたが、至つて実着な、今申すやうな唯率直粗暴の亜米利加人とは頗る趣を異にして居る人です、併し労働的生活から段々に成上つて、遂に亜米利加大富豪の一人となり殊に今日七十以上の人でありますから、余程人にも推尊され、自らも自負して居る人です、身柄はどうだといふと、鉄道会社の社長である所が此人は頗る農業学者で、亜米利加の未来はどうしても此農業を盛にせねばいかぬ、近頃亜米利加人が兎角農を去つて工に就く、田舎を出て都会に行くことは甚だ国の為めに憂へべきことだということを、頻に例を挙げて論じて居ります、此人の議論に依ると、千九百五十年には亜米利加の人口は二億六千三百万人になる、其場合に斯る鉱山若くは工業といふやうなもののみを主眼として国の経済を図つて行つたならば、亜米利加人は今に食ふことが出来ないやうになる、満足に之が希望を充たし需用に応ずると云ふには、どうしても農業ならざるを得ぬ、然るに亜米利加は土地は相応にある、而も悪くはない、けれども農業の仕方が甚だ粗雑である、又地力の尽し方が甚だ手薄である、斯る有様では、亜米利加の富を永久に保持する訳にいかぬ、殊に田舎の人が都会に行き、農業が工業に移り変るのは、実に国家の此上もない憂であると云ふ趣意を、それこそ喋々百千言を費して論じて居ります、又其文章の中には日本の農業なども批評して一噎《エーカー》(日本の四段)に対する亜米利加の収穫は此位であるが、日本では其三層倍取れる、――吾々は日本の耕作の仕方が小農法で不利益であるとばかり思うて居つたが、亜米利加へ行つてヒルの説を聴くと、亜米利加の大農法といふものは、どうも地力を尽さぬからいかぬと云うて、却てヒルは反対に日本を羨んで居る、これはヒルの説が十分尤もだとばかりは申せぬ、あゝいふ大きな地面を持つて居る国は、果して日本の通の小農耕作法が宜いかどうか、是は疑問である、私は寧ろ亜米利加の仕方が宜からうと思ふけれども、ヒルの如き意見を持つて亜米利加の農業家を戒めるといふことは、亦一の大なる議論と思ふので、甚だ面白く感じましたから、私はそれに一の序文を書いて、さうしてヒルの説をば東京にも地方にも成るべくたけ紹介して、亜米利加にさへ斯ういふ説を為す者があるといふことを、日本の農業に力を入れる人に能く知らしめたいと思ふのでございます。
亜米利加談は、初から終りまで一々お話をすると、自分でも自分の言ふたことを忘れる位長くなりますが、もう時も経ちまするし、さう長くお話も出来ませぬから、先づ概況其様な有様で、即ち五十三市を巡回致しましたと御承知を願ひたい、それで到る所見ました景況は、前に申述べたやうな次第であります、詰り吾々の一団は、先づ一国の平和の使命を帯びて参つたと云ふのでありましたからして、向ふも各都市皆其意味を以て待遇をして、幸に尽く能く迎へられ、尽く能く情意を疏通して、丁度昨年十二月十七日に都合好く帰国を致した、而して先づ此の一団の使命は果した、但し其以来の亜米利加との交情が、それらの事から弥増に懇親が、重なるやうにありたいと私共希望して居ります、又或る点まではさうなつて居ると思ふ、さりながら前に申す通、なかなか突飛な国風ですから、さういふ中にも、例へば満洲の鉄道を中立にしやうじやないかといふ注文が出るかと思ふと、有力のシツプとかシヨーとか、どつちも私は懇意の顔ですが、露西亜と日本が親密にするのは、亜米利加を疎外する心であらうと云ふやうな、心苦しい演説なども時々聞えるのです、是は蓋し亜米利加の気風の率直の所が解るので、其ために国交が沮害されて、遂に国と国との間に忌むべきことが生ずるなどゝ云ふことは、私は万々無からうと思ふ、而して昨年吾々の旅行は、亜米利加の国民をして日本を知らしめたと云ふことに就ては、幾分の効能があつたらうと思ひます、同時に私は日本に帰つて以来は、到る処で亜米利加人の気質は斯様である、亜米利加の社交上若くは経済上・工業上、総ての方面が斯様な有様である、善いと悪いと観た儘を親切にお話をして、而して亜米利加全体の国情が斯やうであるから、成るべく亜米利加を誤解せぬやうになさるが宜いといふことを申して居ります、今日の此亜米利加談をするのも、即ち八基村の諸君にして、成るべく此亜米利加と云ふものゝ国情を誤解させともないのです、昔私が五十六年前には亜米利加を唯敵とばかり心得たのは、何も知らぬ即ち誤解の為であつたが、今日はさういふ暗闇の喧嘩はせぬやうに、事情を明かにして、さうして是を是とし非を非とするといふ文明国民とならねばならぬのであります、どうぞ諸君にも亜米利加に対する――独り亜米利加ばかりではない、他の外国に対する有様を能く知つて、さうして是を是とし非を非とし、彼は斯うであるから我は斯様でなければならぬ、彼の長所は斯様であるから、此方は斯う云ふ長所を以て応じなければならぬと云ふ覚悟を持ちたいと思ふのでございます。
亜米利加談は先づ大体是で終りまして ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.433-443掲載)