「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月20日(土) 登山電車に乗りマウントローの見学。商業会議所で接見会の後、商品陳列場を見学。カリフォルニアクラブで午餐の後、ハリウッド、油田を巡覧 【滞米第81日】

竜門雑誌』 第274号 (1911.03) p.63-68

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
十一月二十日 土曜日 (晴)
青渊先生の容体未た良好ならず、体温は殆ど平熱なるも、咳嗽頻りに出て且少しく頭痛を感ぜらるゝ由なり、朝熊谷医学士の来診あり、前日に比し別に悪兆を認めざるも、今日にして全治し置かざれば後患を遺す基となれば、本日は外出は勿論、食堂に出づる事も見合はせ、食事の如きも室内に於て採られたしとの事なりしが、先生には朝昼とも食堂に出でゝ食事を取られたるが、夕刻に到り体温少しく進み、熊谷氏の発汗剤を服用して午後十一時臥床せられたり
此日一行は歓迎委員の案内にてホテル前より特別電車に乗じ、市外パサデナの勝区を過ぎて、マウント・ローに向ふ、同地は海抜五千呎の高地に在り、ケーブルカーに依りて急坂を登り、崖頭を廻りて景勝の地を賞するの便あり、山腹のアルパイン・タベルンと称する小ホテルに小憩し、正午商業会議所の接見会に臨み、夫よりカリフオルニア倶楽部の午餐会に臨み、終りて電車にてホリウードの石油田を巡覧し、夕刻ホテルに於て晩餐会あり、席上商業会議所会頭ブース氏の歓迎演説、及中野武営氏の団長代理演説ありて、午後十一時解散せり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.303掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第五節 ロスアンゲレス市
十一月二十日 (土) 晴
午前八時二十分歓迎委員の案内にて、一同特別電車に乗り、市外パサデナの勝区を過ぎて、マウント・ローに向ふ。同所は海抜五千呎の高地なるが、特種の登山電車を設けたれば、急坂を登り崖頭を廻りて、容易に絶勝を探ぐるの便あり。一望千里、実に今回旅行中の快事たり。山腹に「アルパイン・タベルン」と称する小旅館あり、一行は此処に小憩し、再び電車にて帰る。正午十二時商業会議所に立寄り、一般公衆に対する接見会に列し、商品陳列場を参観し、更にカリホルニア倶楽部に赴き、午餐の饗応を受く。午後二時同倶楽部を辞し、電車にてホリーウードを過ぎ、石油田を巡覧し、午後五時半ホテルに帰着、午後七時半よりホテル内に於て盛大なる晩餐会あり。席上商業会議所会頭ブース氏の歓迎演説あり、渋沢団長は不例の為め、今夕の招宴に列せず、中野氏代つて代表的答辞を述ぶ。
尚今夕の宴席には余興として伊太利人の唱歌及舞踏などありたり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.311-312掲載)


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