「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月18日(木) サクラメント停車場で、渋沢栄一は邦人に対し演説。サンノゼでは現地在留邦人と会談。デルモントで海岸線をドライブ後、ホテルで入浴と晩餐。テキサス分遣隊は一行に再び合流 【滞米第79日】

竜門雑誌』 第274号 (1911.03) p.63-68

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
十一月十八日
午前七時目覚むれば、一行は既にネバタ州の西部広漠たる平野の裡に在りて、将に加州の地に入らんとす
○中略
午前十一時サクラメント到着、数分間停車す、青渊先生は停車場に出迎はれたる邦人の集団に対し、一場の訓戒演説を試みられたり、此辺一帯の地はサクラメント河の平原にして、真に沃野千里、尤も果樹の栽培に適すと云ふ
○中略
正午サンノゼに着、数分間停車、安田勝吉・国本栄喜・木村俊雄の三氏同地在留邦人総代として来る、先生は昼食を廃して会談せらる、午後四時デルモントに着す、直に自動車又は馬車に分乗して、所謂十七哩ドライブと称する太平洋沿岸景勝の地を巡覧して五時ホテル・デルモントに入る、随意入浴を為し、又晩餐を喫して、前日来車中に蟄息沮喪したる勇気を恢復し、九時半列車に戻り即時発車す、此デルモントは我大磯の如く夏時避暑客の遊覧地に宛てられたるものにて、同ホテルは清洒たる木材建築にして、煉瓦又は石造の如き厚苦しき建物に非らず、日米新聞記者安井涙泉氏、先生を此のホテルに訪問して視察談を聴取して帰る
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.301-302掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第三節 ロッキー及ソルト・レーキ市
十一月十八日 (木) 晴
午前十一時サクラメント停車場に着、当市は加州政庁の在る処なれども、僅に数分間停車して、来訪の同胞に接見し、直ちに出発す。正午より午後にかけて我特別列車は、ロッキー山脈と沿海山脈との中間を馳す、此両山脈間にサクラメント・ヴァレー及サンノゼ・ヴァレーの二平原あり、真に一眸千里の沃野にして、特に葡萄の栽培に適す。而して此二平原の十分の八は、同胞の手に依りて耕作収穫されつゝあり。中には自ら土地を所有するも在り。土地を数年間租借せるもありて、其間に有する同胞の潜勢力は、真に動すべからざるものありと云ふ。
午後五時頃デルモント着、一同自働車又は馬車にて沿岸の絶景を探り、後デルモント・ホテルに入り、随意浴を採り、晩餐を喫す。同九時半再び列車に搭じ羅府に向つて発す。夫れより森林を過ぎ、海岸に出づるや、白砂緑樹と相映じ、古木奇岩と相俟つて、風景頗る佳なり。殊に此沿岸は遥かに祖国と聯れる、所謂太平洋なるが故に感慨殊に深きものあり、先にデンバァにて別れたる中野・南・渡瀬氏等は、今日デルモントにて又一行と会す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.311掲載)


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