「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月17日(水) ソルトレークシティ到着。モルモン・タバナクルでパイプオルガンの演奏、君が代の独唱を聴く。オグデンを通過 【滞米第78日】

竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十七日 水曜 (晴)
午前六時頃カスチラを過ぐ、此辺の山腹にはグード氏の講話せられたる太古の海岸たりし証跡見ゆる筈なりしも、日出前の事とて之を見る能はざりし、前八時ソルト・レーキ・シチー市に到着す、州知事スラノー氏・元老院議官スムート氏・市長フランスフヲード氏、其他官民有志の出迎を受け、青渊先生以下一同自働車に分乗し、会堂市街を通じてモルモン宗教タバナクルに到る、一同の着席するや寺院管長の歓迎の辞あり、次ぎにジヨン・マクレラン氏のビルグリム合奏其他三四曲のオルガン弾奏あり、又インサイン氏の君が代の独吟ありて後、一同寺院を辞し、市街巡覧に向ふ、去るに臨み二世スミス氏は青渊先生にモルモン宗経一巻を寄贈せられたり
  因にダバナクルは、ソルト・レーキ市に於ける最も著名なる建物にして、座席八千を有し、円天井には一本の釘も無く、又一の支柱なし、千八百四十七年モルモン宗の人々が他宗教上の迫害を受けて逃れ来り、地を此処に相して直に此を建築したりと云ふ、其建築の精巧なる、仮令ピン一本を落すも其響四隅に達するにて推知するを得べし、而して此大ヲルガンは千八百五十年ジヨセフ・スミス氏(本年七十一歳)の命に依り、部下の技術者設計したるものにて、実に世界第一の最大楽器にして、其音響は克く数哩に達すと云ふ
此日は天気快晴なるも厳寒凛烈肌に砭し、四肢又感触を失ふが如し、之に加ふるに自動車疾走の為に風を起し、濛々たる塵埃は鼻口耳目に侵入して甚だ苦痛を感じたりしが、青渊先生には此市民の厚意に酬ゆる為め甚だ愉快相に此苦痛に堪へられ、柳其他の樹木を以て人道を区別せる車道を疾走して、先モルモン宗の開祖ブリガム・ヤング氏の銅像を始めとして、重なる市街を巡覧し、又軍隊の営処を見て午前十時列車に戻る
十時半発車、途中ソルト・レーキ(長百哩、巾六十哩)を過ぎ、湖上の風光を賞する間も無く、太古は湖底なりしと云ふ広漠たる不毛の原野に出で、二重硝子の車窓を密閉するも何処よりか砂塵侵入して車室に堆積す、午後一時五分ヲグデン市に到着、十分間停車す、青渊先生は在留邦人総代市村三郎氏其他の来訪を受けられたる後、観覧車に出てゝプラツトホームに来集せる邦人に対し、熱誠なる訓戒の演説を試みられたり、一時十五分発車して、再度眼界無き広漠たる不毛の原野に出でて、砂塵をあびつゝ進行し、午後四時同行外国人側委員エリオツト氏の、大統領選挙に関し党派及選挙人運動に関する趣味ある講話あり、夜は青渊先生を中心として種々の雑談ありたるが、就中先生の太平洋沿岸諸港に関する談話は、生等の参考として聴取すべき事なるを以て、其一節を茲に録す、先生曰はく、米国太平洋沿岸の諸港は、互に協力一致東洋地方の富源を開拓して、特に日本・支那を富ます時は、桑港・シヤトルの如きは大西洋沿岸の紐育等の繁盛に劣らさる結果を得る事難からざるなり、然るに是等諸港は互に鷸蚌の争を為し、其上日本人排斥等を為すは、誠に先見の明なき処置と云はざるべからず云々
青渊先生は午後十一時就床せらる
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.300-301掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第三節 ロッキー及ソルト・レーキ市
十一月十七日 (水) 晴
午前六時五分、カスチラを過ぐ、此辺の山腹には、太古の海岸なりし痕跡見ゆる由なれども、天尚ほ暗くして其実景を見る能はず、午前八時ソルト・レーキ市に着、知事ジョセフ・エフ・スミス氏、其他官民の出迎を受け、直に自働車に分乗し、モルモン教会々堂に至る。正面に巨大なるパイプ・オルガンあり、一同の着席するや、先づ寺院管長の歓迎の辞あり、マグレラン氏のオルガン弾奏に次で、邦語君が代の独唱ありて後ち、一同寺院を辞し、市中を巡覧すること約一時間、十時再び列車に帰る。
午後四時頃より、観覧車にてエリオット氏の大統領選挙に関する講話あり、夫れより、オグデンに向ふ。途中有名なるソルト・レーキ(塩水湖)を過ぐ、湖水は塩分強きが故に、魚類の棲息に堪へず、又た船舶の往来せることも見ず。湖上を過ぐれば、更に広漠たる不毛の広原に出づ、此辺太古は湖底なりしと云ふ。午後一時五分オグデンに着、暫時停車。在留日本人の来訪するもの多し。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.310-311掲載)


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