「渡米実業団」日録

情報資源センター・ブログ別館

 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月16日(火) デンバーを出発しロッキー山脈を通過。車中でアメリカ側委員グード博士が次の訪問先ソルトレークについて講話をなす 【滞米第77日】

竜門雑誌』 第273号 (1911.02) p.29-44

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十六日 火曜 (晴)
コロラド、ユタ両州に跨り敷設せられたる鉄道に依りて加州方面に向ふべく、午前三時デンバー市を発車したり、昨夜帰車遅く、且本日は終日進行して途中停車する事もなく、又歓迎委員に踏み込まるゝ憂も無ければと、気を弛して漸く午前七時半起床して観覧車に出づれば、前夜の降雪今は全く止み、海碧の如き空は一点の陰翳を止めす、地は満目銀世界となり、山河の景勝、樹木の風景、名状すべからず、午前八時果物・石灰岩山にて其名を知らるゝキヤノン・シチー(海抜五三四四呎)を過ぎ、断崖弐千百呎の高処に架せる空中釣橋を望み、ローヤル・ゴージ(同五、四九四呎)を経(此辺はロツキー山脈中最も天然の奇勝に富み、奇巌天を摩し、怪石山上に蟠屈し、其壮絶の景実に賞すべき言辞を知らず)て、ロツキー山脈の頂上テンネツシー・パツス(同一〇、二四〇呎)に着す、茲に半哩程のトンネルあり、此即ち分水嶺にして氷雪を東西に分流す、茲より漸次降り坂となり、キヤノン河に沿ふて下れは山水の風光又一層の景を添へ、マインタアン(同七、八二五呎)ニユーカツスル(同五五六二呎)等を過ぎ、午後五時シヨース・ホーンに達し、セントラル・コロラド水力電気会社を車中より望観し(此会社の水力電気はグランド・リバーの水を二哩間トンネルにて一分時二千立方呎の水を引き、八十呎の高地より落下して一万八千馬力の電気を得、之を二百哩以上を隔つるデンバー市に送り、尚同市より各地に送電すと云ふ)同廿分グレンウード・スプリングスに到り、三分停車して温泉湧出の様を見たり、グレンウード温泉(塩原温泉に酷似し、其グランド・リバーは箒川に均しく、其温泉の両岸の地に湧出するの状、家屋の諸所に散在するの様頗る相似たりものもあり、只其規模に於て大小あるのみなり)終れば薄暮車窓を包み、夕食後は観覧車
此日午後二時より、米国側委員博士グード氏のソルト・レーキ及モルモン宗に関する講話あり(之が梗概を叙すれば、ソルト・レーキは今より廿五万年前は同地方一面の大海なりしが、其海水は漸次北方に流出して、遂にソルト・レーキたけの面積を有する者となりたるなり、其証拠には其附近山岳の地層は凡て海岸の層を為し、岩石の如きは海水に依りて洗はれたる状を其儘に存し、而して湖岸の砂石は海岸の砂石と同一のものなるに明かなり、潮水の塩分は廿五パーセント(一升に付き二合五勺)なり、是蓋し純粋の水分は幾時となく蒸発して、比重多き塩分丈け残留したるものなり云々(如此一升に付き二合五勺と云ふ如き塩分を有するとすれば、潮岸一帯製塩事業盛大ならんとし、或は誰にても均しく起る処なれども、米国に在りては到る処に於て地中より十分純良なる食塩を得るを以て、塩分多ければとて、此地に於て製造し多額の運賃を支払ふては得失相償はざれば、今は只数個の製塩会社の在るのみなり)尚モルモン宗に付きては、同宗祖ブリグハムヤング氏が旧教の経典中よりモルモン経案出したる当時の状態より、同宗拡張の為めに蝟集する迫害を排除しつゝ、あらゆる艱難辛苦を嘗めたる状態を講話して、同宗の一夫多妻主義は、其後合衆国の法律を以て一夫多妻を厳禁したれば、現今に於ては此宗旨を奉ずるものも、多妻を有するもの無し云々と結びたり)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.299-300掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第三節 ロッキー及ソルト・レーキ市
十一月十六日 (火) 晴
午前二時デンバァを発してロッキー山脈に入り、払暁已に海抜四千七百呎の地に在り。夫れより漸次ポートランド(五、〇五一呎)フロレンス(五、一九九呎)を過ぎ、午前八時カノン・シティー(五、三四四呎)より進んでローヤル・ゴージ(五、四九四呎)探勝に向ふ。此辺はロッキー山脈中最も奇勝に富む所にして、釣橋の空に架れるあり、奇巌の天を摩するあり、殊に雪後の快晴に乗じて、此の絶景を賞す、相顧みて快哉を叫ばざる無し。斯くて午後一時五十分テンネッシイ・パス(一〇、二四〇呎)に着す。是れ我が列車が過ぐる該山脈中の最高地なりとす。夫れより又漸次降りてマインタアン(七、八二五呎)ニューカッスル(五、五六二呎)ランド・バレイ(五、一〇四呎)等を過ぎ、薄暮に近づくも尚ほ車窓の観望飽く事を知らず、夜に入りては観覧車内グード教授の、ソールト・レーキ市及モルモン宗に関する講話あり。氏は又米国協会の寄贈に係る米国全図を各員に一葉づゝ配布せり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.310掲載)


参考リンク