「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月11日(木) 呉服店、製靴会社、印刷会社、小中学校、図書館などを見学。夜はオリンピック座で観劇 【滞米第72日】

竜門雑誌』 第272号 (1911.01) p.45-52

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月十一日 木曜日 (晴)
九時四十五分青渊先生以下一行自動車に出迎はれて、先づエリー・エント・ウオルカー呉服店を見物す、此会社は絹及木綿織物の卸売を為すものなるが、販売処を一巡して(販売処には一卓子毎に各種の見本品を置き、之に天井より一ヤール幾干、一打幾干と記されたる代価付の紙片を下げたり)荷作場に到り、蒸気機械を以て織物を圧搾して荷造する様を見、夫れより木箱製造場・荷物積出場とを参観し、最後に事務所に到り、如此大規模の商店が極めて少数の店員に依りて秩序克く遅滞なく取扱はれ居るに驚嘆したり
次に青渊先生には、フランシス氏の茶菓の饗に招かれ、畢りて同氏と自動車にて博覧会の遺跡を見て、レウイス氏出版会社に到り、同氏の午餐会に出席せらる、席上フランシス氏はレウイス氏を紹介し、同氏は起ちて歓迎の言を述べ、且簡単に自ら経歴を述べ、次ぎに青渊先生は同氏の歓迎を謝し、且同氏の成功を祝す、会畢りて後一同印刷部に到る、青渊先生にはレウイス氏の依頼に依り紀念の為め機械の一隅に在る釦を押されたるに、今迄休止せる数百の車輛は戞然として一時に廻転を始め、見る間に本日同氏が一行を招待したる午餐会の写真及記事の印刷せられたる特別号は、立ろに出来して一行の手に交付せられたり、此機械は一分間に八千枚を印刷する事を得ると云ふ、夫れより先生以下一行はセントルイ・カントリー・クラブに到りて打球を一覧し、畢りて花卉共進会を見物し、一先づホテルに帰り、午後七時半名誉領事スミス氏の案内にてオリンピツク劇場見物を為し、十一時半列車に帰り、カンサス市に向ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.288-289掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.352-388

 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
     第五節 聖路易市
十一月十一日 (木) 晴
午前九時半、出迎の自働車に分乗し、エリツ及オーカー呉服会社及米国第二位に在りと称せらるゝ、ハミルトン・ブラウン製靴会社の工場を見物し、次に市育児院の副業なる花卉園を見る。夫れより市内の住宅区域・公園・大学町等を通過して、ルウィス出版会社に至り、午餐の饗応を受く。
又神田男以下教育家の一部は、市学務委員の案内にて中学・小学・図書館等を歴訪す。
午後は田園倶楽部に至り、其の後庭にてポーロ競技・騎馬打球を見物す。午後七時半名誉領事スミス氏の招待にて、オリンピック座観劇、同夜十一時過ぎ一同列車に帰り、カンサス市に向つて発す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.308掲載)


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