「渡米実業団」日録

情報資源センター・ブログ別館

 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月10日(水) テキサス地方視察記(南博士報告)

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.394-399

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     附記 テキサス地方視察記      (南博士報告)
[前略] 十日及十一日の両日間は、当市商業会議所書記長及西原清東・竹田貞松・紀藤方策氏等の斡旋により、当市に於けるスタンダード精米所・掘抜き井用鉄管製造所・肥料製造所・綿花取引所等を視察し、当市附近のウェブスター、及其の他の地方に於ける米作地状況リーグシチー及フレンドウードに於ける、温州柑橘栽培状況、並にアルウヰンに於ける、該柑橘育苗園等を視察したり。
ウェブスターはヒューストン市より、ガルウエストン市に到る中間に在る米作地にして、西原清東・大西虎・岩村薩摩・岡崎常吉・木下直吉氏等の経営に係る水田地あり。此等諸氏の水田経営が着々功を奏しつゝあるを見て、大に愉快に感じたり。而して目下テキサス州の各地方に於て、水田経営に従事する本邦人は十七名にして、其耕作段別は約九千英加に達すと云ふ。其他蔬菜栽培及柑橘栽培に従す事る本邦人も亦少からず。
昨今此水田経営者が、其耕作上困難を訴ふる所の事柄は、開田してより年を経るに従ひ、雑草の繁茂と、赤米の増殖にあり。又彼等の最も苦痛を感ずるものは、本邦労働者の減少にあるが如し。尤も此等の事柄が、本邦水田経営者の事業上に、多大なる影響を及ぼし、其事業の衰退を来すが如きことなきは、彼等経営者の自信する所なり。
予は当地方の視察に就て意外に感じたるは、温州柑橘成育の良好なる事是なり。而して両三年以来、当地に於ては、温州柑橘の植付盛にして、随所に大規模の柑橘園の開設せられたるを見受けたり。又新井三郎・伊村佐平氏等の如きも、アルウヰンに於て一大柑橘園の開設に着手中なり。
此地方は其地勢・地質等より観察するときは、概して柑橘の適地とは認められざるも、河岸地の如き適地なきに非るを以て、栽植地の撰定に注意して之を栽培せば、将来有望なる事業たるべし。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.350掲載)