「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月6日(土) ピッツバーグ板硝子製造所、ハインツ社等を見学。夜は商業会議所主催レセプション。ニューオーリンズとテキサスへ向け分遣隊出発 【滞米第67日】

竜門雑誌』 第271号 (1910.12) p.29-32

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月六日 土 (曇)
午前九時青渊先生には、十数名と共に自動車に分乗して、市外十五哩許りなるピッツバーグ板硝子製造会社に到り工場を一覧す、此第一工場は硝子溶解壺を製造し、此壺土の原料(クレー)は三割六分をミゾリー地方より、九分を独逸より得、而して五割五分は古粘土なりと云ふ、此壺は十七日以上は使用に堪へざるを以て、常に三・四百箇の壺を予備せりとの事なり、次に第二工場、即板硝子製造工場を一覧す、第一工場にて製造したる壺にて溶解したる硝子を鉄板に流し、之を円形の鉄棒にて延す状は、恰も東京に於て道路の小石を押し付ける円長の石を廻転するに似たり、而して此平延したる板硝子を急に冷気に触るゝ時は破裂の恐ありとて、漸次に之を冷却する為め、外の一室に送致して三・四日間仕舞置き、然る後取り出すなりと云ふ、次ぎに第三工場即硝子磨き工場を一覧す、赤色の磨粉即硫化鉄を硝子面に振り掛け、器械に依り之を磨き透明なるものとなす、次ぎに第四工場磨粉製造工場を見、最後に板硝子陳列室を見、畢りて正午米国第一の純良蔬菜缶詰会社と称せられるゝハインヅ会社に赴き、他方面の巡覧に向ひたる一行と相会し、案内者に連れられて各製造工場を一覧し、其食堂に於て午餐を受く、社長ハインヅ氏起ちて、一行歓迎の辞を述べ、且七年前日本に遊び、東京・大阪・神戸・京都・名古屋の各地に到りて懇切なる歓迎を受けたる事、五十年前漸く開国したる日本は、今や世界一等国の班に入れるが、親敷諸君に会する到りて、真に一等国の臣民たるに愧ぢさる国民なる事を知る云々と述べ、次ぎに商業会議所会頭スミス氏は起ちて、此食卓の内には日本に派遣したる二人の社員あり、当社と日本とは将来益親密ならざるべからず、近頃事を好む新聞紙ありて、日米間何等かの紛擾ある如く記載せるを見る、是等は全く虚構の浮説なる事を信ず、若し黄色人種の憂ありとすれば、コハ戦争に於ける憂にあらずして、平和の競争に於ける黄禍なり云々と述べ、次ぎに青渊先生は起ちて、一行の当工場を参看したる上、茲に鄭重なる歓迎の宴を開かれたるを深謝す、本社々長は七年前に日本に漫遊せられたる由なるが、確に日本に精通せられたる紳士なりと信ず、本社は千八百六十八年に創立せられたる由なるが恰も日本が新らしく世界に顔を出したるも千八百六十八年なり、即ち本社と日本とは同年齢なりと雖ども、日本の進歩は当社に比すれば甚だ遅々たるを知る、而して又当社にて製造する缶詰の種類は五十七種なりとの事なるが、我等一行の人員が之と約同数なるは実に奇と云ふべきなり、当市の煙多きは黒き金剛石が地下に多ければなり、即煙は富の変形したるものなり此富の内に煙無き富を有する当社を見たるは、吾々の深く記憶すべき事なりとす
日本に於て一の喩あり、矢を造る目的は勉めて人を射殺せんとするに在り、反之兜を造るものは勉めて人を射殺せられざらんことを欲し、両者全く其目的を異にす、製鉄会社が盛に煙を吐出すに反し、当社が美麗なる婦人に依て如此美味なる製造品を得るは、恰も前述の矢と兜に於ける如し云々
右演説の後、社長は幻灯を以て同会社の世界に於て有する各種農場及製造場の盛大なる状態を示して、一行を款待したり、畢りて先生には午後五時ホテルに帰宿し、同所に於て商業会議所の催にかゝる正式接見会に臨み、茶菓の饗を受け夜十時半帰車せらる、十二時シンシンナタ市に向て発車す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.281-282掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.334-339

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十八節 ピッツバーグ
十一月六日 (土) 曇
午前九時頃より団長以下十数名は、市外十二哩を隔てたるオハイオ河畔に、ピッツバーグ板硝子製造所を参観す。残余は九時四十五分ホテルの近傍に行はるゝ消防演習を見物し、それより各公園及住宅区域を見物し、正午十二時半ハインツ会社に赴き、こゝに団長以下の一隊と会し、午餐を饗せられ、終りて同会社の各工場を巡覧す。
同会社は米国第一の純良蔬菜缶詰会社なり。食後幻灯を以て、世界各国に渉れる同事業の説明ありしに、其広大に驚嘆する者少からざりき。午後八時ホテルに於ける正式接見会に臨む。茶菓の饗応あり夜十二時シンシンナターに向つて発す。
婦人の部 午前十時婦人歓迎委員の案内にて、フィリップス音楽学校を訪ひ、後田園倶楽部に向ふ。午後一時半同所にて午餐を饗せられ、後ホテルに帰る、午後八時より男子と共にホテルにて正式接見会に列す。
日比谷・飯利両氏は、棉作地視察の為め、今夕本団を離れ、ニューオルレアン地方に赴き、南博士・多木氏夫妻、亦た農事視察の為めテキサス方面に向ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.305掲載)


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