「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月1日(月) 日本での報道「渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり」(実業之日本)

実業之日本』 第12巻第23号 (1909.11.01) p.28-30

    渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり
          特別通信員 実業団随員 加藤辰弥
九月十九日、一行はミネトンカ湖畔ラフアエツト倶楽部に於て大統領タフト氏と会見した。タフト氏は例に依て愛嬌満面、人毎にお世辞を振撒き、且巧に酒落を頻発して一行を大笑中に捲き去つた。
  タフト卿と渋沢男の会見
タ卿『御道中御一同御障りもなく、益々健全なる貴下等の一行を此処に迎ふることを得て欣喜に堪へず、殊に余は貴下の如き光輝ある人が『商業の使節』(Emvoy of Commerce)として特に弊国に御光来せられたるは更に大に喜ぶ所なり』
渋男『余等一行は、茲に健全なる閣下を見ることを得て満腔の喜悦を禁ずる能はず、今回貴国が我等一行に対して示されたる厚意と盛情とに対しては、殆んど感謝の辞を知らざるなり。殊に閣下が本日多忙なる時間を割て、此美しき公園の倶楽部にて特に一行と会見の機会を与られたるは、深く恐縮する所なり』
タ卿『余は前後二回日本へ来遊せしが、其都度種々御歓待を受けたる事は今猶忘却する能はず。殊に貴下が吾等一行―ミス・ルーズベルト嬢同行の一行―を芝紅葉館に招待し、貴下が日本服にて、日本料理を御馳走されしは今猶ほ眼前に見る様なり』
  渋沢男の笑顔千金の値
渋男『余は今回満腔の謝意を、余自から英語にて閣下に表白する能はざるを遺憾とす。一々通訳を煩はして言語を交ゆるは誠に不便なり』
タ卿『余も日本語を話す能はざるを遺憾とす、お互に遺憾は則遺憾なるも、貴下が特有の微笑は、日本語・英語、又は何国の語よりも余をして愉快禁ずる能はざらしむ。』
○中略
  タフト卿渋沢男夫人を襲ふ
それより大統頭は渋沢男夫人に向ひ、極めて愛嬌に富める挨拶を為したり。
タ脚『ようこそお出で下さいました。日本ではなぜ、貴女の如き優婉な、且、チヤーミングな貴婦人を外へ出さないで、内へ閉ぢ込めて置て、男子のみ外へ出るのでせうか、私は貴国の習慣を知らないけれども、是れは甚だ不公平であると思ふ。どうぞ今後は日本貴婦人の多く来遊せられんことを望む』お世辞としては、是以上のものはないであらう。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.152-153掲載)


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