「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月29日(金) 独立記念館、造幣局、ペンシルバニア大学、ジラードカレッジ等を見学。造幣局では記念牌を贈られる 【滞米第59日】

「米国政府造幣局」紀念牌
「米国政府造幣局紀念牌
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿九日 金曜日 (晴)
午前九時三十分製造業者倶楽部に集合し、青渊先生以下一行同部に於て用意せられたる自動車に分乗して、各調査希望の方面に向て出発す青渊先生は先づ独立紀念会堂に到り、独立戦争に関する盟約文、之に署名したる名士の筆蹟及当時鋳造したりと云ふ鐘等を見て往時を追懐せられ、夫れより合衆国造幣局に到り、其美麗なる建築を一覧の後、銅貨鋳造の作業を巡覧せられたる後、鋳造部に至る、局長親ら案内の労を取り、軈て金塊一個を手にして出で、之を一行の面前に於て紀念牌に製造し、青渊先生に託して我
天皇陛下に献呈し度しとて、見る間に機械に掛けて表面にタフト大統領を表し、裏面に日英両文を以て日本実業家来米歓迎紀念章千九百九年秋と刻せる金牌を作りて、先生に其伝献を依頼せらる、先生は謹て之を受諾せられたるも、コハ局長より其意を華盛頓なる我大使に通じて之を送付し、大使より之を先生に托するの手続に依るこそ至当なりとて、一と先之を返却せられたり、米国人の無造作なる真に驚くに堪へたり
造幣局の参観終りて、先生にはペンシルバニア大学を参観せらる(同校在学の日本人は阪本陶一郎・上田良武(海軍大尉)・和田庄三郎・佐藤梅太郎・畑井某・国友信哉・高橋某の諸氏なり)正午学生倶楽部に於て午餐の饗を受け、夫れより学生寄宿舎(上田大尉の居室を見たるが、日本の夫れに比すれは天地の差あり)を見、又機関・電気等の実習室を見る、畢てジラード・カレーヂに到る、現在生徒千六百名、一堂に集合したるを見れば、何れも十歳乃至十六歳位の生徒制服にて静粛に座を占めたり、校長は起ちて青渊先生を生徒に紹介し、先生は起ちて訓戒的演説を試み、次ぎて神田男爵・大谷嘉兵衛氏の演説あり、畢りて生徒の分列式を参観して午後六時帰宿せらる
青渊先生と同校々長との談話を左に摘録す
 入学児童はペンシルバニヤ州の住民に限らるゝ哉
  ジラード氏の遺言に依り、先づ費府市の児童を収容し、次にペンシルバニヤ州、尚定員に余りある時は紐育及ニユーオルリヱンスの両州より収容す
 定員及年齢の制限は如何
  定員は千五百名、年齢は七・八歳より十八歳迄とす
 十八歳以上は児童の取扱は如何
  十八歳以上の児童には、夫迄に職業を習はしめ、実際に於て差支無き様に為す
 兵式体操に力を入るゝ様なるが、軍人を養成するの主意なるや
  否、稀に軍人と為るものあるのみ、兵式体操は体育上最も可なりと認めたれば、之を採用するなり
 当校総体の費用、財産より生ずる収入は幾干
  一年の費用は百万円、一人に付六百五十円を要す、財産は炭礦及市内所有土地(五千万円の価格)ありて、石炭より百十万円、土地より九十万円、合計二百万円の収入ありて、支出百万円を差引たる残金は翌年に繰越すこととせり
 宗教上の関係は如何
  宗教には何等の関係なし、故に入学児童の宗旨を問はず聖書は講義すれども日曜日には牧師又は先輩を招きて道徳上の講話を為す
 入学児童の資格は如何
  単に孤児(但父無く母丈のものも含む)に限る丈なり
右畢りて先生には一旦帰宿の後晩餐を認められて、午後八時半より製造倶楽部のレセプシヨンに臨まれ、午後十時帰宿せらる
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.243-244掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十二節 フィラデルフィヤ
十月二十九日 (金) 晴
午前九時半、一同ホテルの隣家なる製造家倶楽部に参集、自働車に分乗し、十時同所を発し、まづ独立閣に向ひ、堂内を見物す。独立宣言書を作成したる紀念堂には、机・椅子・インキ壺・燭台等、当時の什器猶ほ存せり。階下の中央には自由の鐘あり。今は硝子箱に蔵めて安置す。階上の広間は其当時食堂に用ひしものゝ由にて、ペンシルバニヤ州創建者、ウィリアム・ペン氏の肖像画あり。又一隅にはワシントンの使用せられしと云ふ、粗末なる一脚の安楽椅子あり。頗る当年を偲ばしむ。
十時四十五分造幣局に達し、各部を参観す。恰も我が一行歓迎紀念章を製造し居れり。其中純金を以つて製せるものあり。同所長より 天皇陛下に捧呈したき由にて、一面に大統領の肖像を打出だし、他面に「日本実業団来米歓迎紀念」を、日英両文にて刻せり。次に商業博物館に向ふ。同館は州市合同経営にして、物品陳列の方法頗る教育的なるは、館長ウィルソン博士の苦心する処にして、蓋し米国一の名に恥ぢず。各地巡覧の後、図書室にて祝杯を挙げ、紀念撮影等あり。十二時一同々館を辞す。それより各自希望により、各方面の視察に向ふ。大学病院、ステットン帽子製造所、ワナメエカーデパートメント・ストーア、絹会社、ペンキ会社、メーソニック寺院、カーペンター会堂、動物園、美術院等、其主なるものとす。午後八時三十分より十時まで、製造業者倶楽部に接見会あり。一同出席す。
婦人の部 午前九時三十分男子側と共に独立閣・造幣局・商業博物館等を見物し、午後二時三十分、再び自働車にて、ヂラート大学の孤児院に赴き、夜は観劇に招待さる。
  附記 今日当費府駐在、帝国名誉領事、マク・ファーデン氏より正賓専門家へ、時計飾金鐘一個宛贈らる。独立紀念鐘を模せる物なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.256掲載)


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