「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月28日(木) サウスマウンテンで病院を見学。レディングで前日同様の熱狂的な歓迎を受け、フィラデルフィアでは「金製名誉」の鐘を贈られる 【滞米第58日】

「レツヂング商業会議所」徽章

「レツヂング商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿八日 木曜日 (曇)
午前八時サウス・マウント市に到着す、直に下車し、歓迎員の案内にてペンシルバニア州立狂癲病院を訪ふ、院長ウイリアムヒル氏歓迎の辞を述べ、青渊先生一行を代表して謝辞を述べ、夫れより各室を参観す、当院に収容する患者の資格は、州内各地病院に在りて一年以上治療したるも、到底全治の見込なしと云ふ所謂慢性患者に限られ、而して其費用は患者出身の郡に於て三分の一、其町村に於て三分の二を負担する由なり、現在入院患者男六百名、女二百名にして、建物の数合せて十二個、位置と云ひ設備と云ひ殆ど間然する処なし
午前九時列車に戻りレデング市に向ふ、一時間にして達す
此市に於ける歓迎は意外の盛況にて、前夜潮の如き歓迎人に握手を求められしが、果せる哉此日汽車の停車場に着するや、待構へたる歓迎人は黒山の如く蝟集して一行を迎ふ、青渊先生以下一行は自動車に迎へられ分乗す、三名の騎馬巡査先頭に、音楽隊を乗せる自動車、団長たる青渊先生を迎たる自動車以下、順次二十余台の自動車は、最先の行進の譜を奏せる自動車の跡を、実に清潔なる、砂塵だに認むる能はざる街路を駛る、小学校生徒を始め、市中の老若男女群を為して一行を迎ふ、一行は先づ鉄工場を参観す、百五十噸の蒸汽機関車を、エレベーターに依りて容易く一行の頭上を運搬する様を見たり、斯くて各室を参観の後シチー・パークを一周して秋色を賞で(此公園の入口に牢獄あるは文明国として如何哉と同行の外人に質問を発したるに、如何にも野蛮的なれは近々の内に他に移転する事に決定しありと云)中学校に到る、校長ウエチー氏の案内にて青渊先生外一同講堂に進む、堂内にて待ち受けたる男女生徒千余名は、起ちて校歌を唱うて一行を迎ふ、席定まるを待ちて市長は起ちて、此市の年少の男女に日本国の印象を与へんが為めに茲に一行を迎へたる者にて、新聞又は雑誌等に記録を存せんとする意趣にあらさるなり、此地の商工業はメリヤス製造・紡績・機械製造を以て、主とする者なれば、諸君の特に記憶せられ、他日再度来訪せらるゝ際に於て比較せられん事を望むと、簡単に歓迎の主意を述べたるに対し、神田男爵英語勅語を捧読して其一本を同校に寄贈せられたり、右畢りて午前十一時列車に帰乗し、午食しつつある間にベツレヘム市に到着す、時に初雪紛々として中空に舞ふ、午後二時同地製鋼会社構内に進入して停車す、青渊先生以下一行社員の案内に依りて各工場を視察し、二時間の後列車に帰着し、四時三十分フイラデルフイヤに向て発車す
午後六時半費府に到着、青渊先生以下一行直に出迎自動車に分乗してベルビユー・ストラツトフオード・ホテルに入る、往年幕府の使節一行も此ホテルに行李を解きたりと云ふ
午後七時半青渊先生には、水野総領事・頭本氏外三・四の同行員と共に同ホテルに設けられたる名誉領事マツクフアツデン氏の饗宴に招かれ金製名誉の鐘を送られたり、又同九時よりウイザー・スプーン会館に於て、米国政治社会学会の集会ありて、青渊先生以下一行之に招かれ、先生には頭本氏を通訳として一場の講話を試みられ、午後十二時帰宿せられたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.242-243掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十節 ニューワーク市及レッヂング
十月二十八日 (木) 曇
午前八時レッヂング停車場を発し、十哩を隔てたる、サウス・マウンテンに在る州立癲狂病院を訪ふ。院長ウィリアム・ヒル氏歓迎の辞に次で、当院の組織の大要を述ぶ。当院はペンシルバニヤ州立にて、多く慢性患者を収容し、其諸費用は州に於て三分の二、当郡に於て三分の一を負担する由なり。夫れより院内を参観し、各病室を見る。本院は頗る閑雅の地を占め、設備亦殆ど遺憾なきが如し。
午前九時癲狂病院前より再び列車に搭じレッヂングに帰り、更に自働車に分乗するに、二名の騎馬巡査及び四名の音楽師を乗せたる自働車、其先導となりて市中を趨る。小学生徒を始め、市中の老若男女の街頭に歓迎する者頗る多し。軈てペンシルベニヤ及レッヂング製鑵会社を参観し、公園を経て十一時半レッヂング中学校を訪ひ、大講堂内の歓迎式に臨む。男女生徒約千名已に堂内に充てり。校長ウェナー氏の司会にて、市長の歓迎辞あり。神田男之に答へ、更に英訳勅語を朗読し、其一本を同校に寄贈す。十一時三十分列車に帰り、直にベツレヘムに向ふ。時に初雪の霏々たるを見る。
午後一時ベツレヘムに着、列車は同製鋼所構内に停る。当所は鋼鉄板、其他武器の製造を特別として、合衆国鋼鉄ツラストの一部に在り。社員の案内にて各工場を見る。流石に米国屈指の大製鋼所の事とて、規模頗る大に、只通覧せしのみにても約二時間を費せり。午後四時三十分、一同列車に帰り、フィラデルフィヤに向ふ。
午後六時半、フィラデルフィヤに着、官民の歓迎者多し。直に出迎の自働車に分乗し、ホテル・ベルビュー・ストラットフォードに入る。往年幕府の使節一行も、此旅館に行李を解きたりと云ふ。奇縁と云ふべし。当夜名誉領事マクファーデン氏、団長・各会頭及日比谷氏等を招待して盛宴を張る。九時よりウィザースブーン会館に於て米国政治社会学会の集会あり。一同招待を受く。席上渋沢男(頭本氏英訳)神田男・水野総領事等の講話あり。聴衆二千余名。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.255-256掲載)


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