「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月27日(水) ニューアーク到着、エジソン電気会社でエジソン夫妻と会見など。レディングの停車場では一行を歓迎する群集で大混雑 【滞米第57日】

「ニユーワーク商業会議所」徽章

「ニユーワーク商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿七日 水曜日 (晴)
午前九時ニユーワークに到着、青渊先生以下一行は直に歓迎自動車に分乗して、同市市庁に於ける市長ハースリング氏のレセプシヨンに臨み、市長の歓迎の辞、青渊先生の一行を代表したる答辞あり、畢りて市庁を失火点と仮定したる防火演習を見る(市庁に消防署の中心とも云ふ可き装置を為したる一室ありて、市内如何なる時如何なる場処に於ける出火も直に知り得ると共に、器械夫れ自身の自動に依りて消防署へ之を警報す、当市消防署の数は五百の分署と卅五の本署ありと云ふ)此仮設演習は、青渊先生が通行の際市庁の失火を認め急遽附近の街路に備付ある警報器を槌を以て一撃して警報したるに始まり、十五秒にして先づホースを満載したる六頭曳の馬車見え、次きて梯子蒸汽喞筒等の馬車到着して、一分を経るか経ざるに梯子は数十丈の窓に架せられ、十数筒のホースよりは数十丈の高処に水を注げり、消防隊員の勇壮活潑なる敏捷なる動作に付ては賞すべき言辞を知らさるなり
右観覧終りて青渊先生と市長を中心に、一行と歓迎委員相混して記念の撮影を為す
後一行は七組に分れて各方面の工場を視察したるが、青渊先生は金属型機械及工具製造会社なるジヨージエーオールと称する会社、銀細工を為すチフアニー会社、銅版印刷会社なるゼ・オスボーン会社を参観せられたり
午後一時七組に分れたる一行は、青渊先生を始め悉くクルーゲル・アウデトリアムに集合、レセプシヨンの後、同地貿易協会主催の午餐会に臨み、協会会頭ジー・エフ・リーブの歓迎の辞、市長ホウスリング氏の演説(商売は人種に依りて差違を生するものにあらす、日本人が当市に於て利益を得らるれは得らるゝ程当市民は利益を多く得らるべき筈なり、此市は米国第九番の工場地にはあれど、将来は必ず第一番の位置に進まん事を確信す云々)次ぎにニユージヤシー州副知事・上院議員の演説あり、最後に青渊先生は一行を代表して答辞を述べられたり、畢りて午後三時エーグル・ロツク公園を過ぎて、有名なるヱヂソン電気会社を訪ふ、七十一歳のヱヂソン氏は、耳こそ少し遠けれども、温厚なる君子然たる風貌を以て、令夫人及同社重役と共に一行を迎へ、先頭の青渊先生先づ握手挨拶を為し、引続き一同握手を交換して裡に入りしが、ヱヂソン氏の請に依りて、一行と同社重役と共に記念撮影を為し、畢りて別室に於ける最新式の明瞭なる活動写真を観覧し、尚ヱヂソン氏の発明に係る六時間にて建造すと云へるコンクリート製家屋を見る、此造家型は鉄製にして価格十万円なるも、之に依りて作りたる家屋一個の原価は二千四百円なりと云ふ、此型の家屋は主として中等生活を為すものの需用に充つるものなりとの事なり、尚諸作業場を案内せらるゝ筈なりしが、汽車の発車時刻に近寄りしを以て急ぎ停車場に到りたり
  因に此コンクリート家屋に就ては、一行中の建築家たる本社会員原林之助君は、特に技師に就き取調べられたるに付、詳細を知らんと欲せらるゝ御方は同君に御照会あらん事を希望す
五時廿八分サウス・マウント市に向ふ、午後九時レデング市に着、此市にはサウス・マウント市の見物を終り再度来訪の筈なりしかば、一行は乗車のまゝ歓迎を受けたるが、先是汽車の同地停車場に達するや楽隊は先づ君が代を吹奏し、之に続ける歓迎人は潮の如く車窓外に押し寄せ、列を作りて列車内に入り込み一行に握手を求む、依て青渊先生以下一行も亦列を作りて之を迎ふれば、間断なき握手希望者陸続として際限なく、老翁・少年・紳士・労働者等無慮千余名、中には一度握手を終りて外に出でたるも、再度来りて握手を求め、車中実に立錐の余地無く、一同立ちたるまゝにて動く事すら為し能はざるを以て、不得止一方の昇り口を閉鎖するに至れり
午後十二時発車、サウス・マウント市に向ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.241-242掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十節 ニューワーク市及レッヂング
十月二十七日 (水) 晴
午前九時ニュージャーシイ州ニューワーク市に着、直に同市の歓迎委員に案内せられて、一同市役所を訪問し、市長フウスリング氏の歓迎を受け、又消防演習を見る。其完備せる米国第一と称す。後一行七組に別れて、各方面の工場を視察し、午後一時ベルモント街なるクルーゲル・アウヂトリアムに参集し、接見会の後、市長・商業会議所会頭・大小銀行頭取・鉄道会社々長・州両院議員・米国両院議員等出席し、ニュージャーシー州副知事・州会上院議長など、ペリーの事蹟に付き説く所あり。次に当州上院議員ケーン氏は、曾て伊藤公に面接せしことありとて、深く弔詞を述べ、渋沢団長之に答ふ。食後、一同エヂソン電気会社を訪ふ。エヂソン氏夫妻を始め、諸重役の出迎あり、一同接見し、六時間内に建造すと云へる、コンクリート家屋の模型を見る。一同紀念撮影の後、最新式にて明瞭なる活動写真を見、五時過ぎ一同列車に帰り、同五時二十八分同市を辞して、ペンシルベニア州レッヂング市に向ふ。
九時頃レッヂング停車場に着。下車は明朝に譲り、一同車内に在りしに、市の歓迎者は、楽を奏しつゝ已に車窓外に押し寄せ、群集亦雑踏を極む。故に一行は観覧車に集りて、臨時の接見会を開きしに握手を求めて闖入するもの引も切らず。老翁あり、少年あり、紳士あり、労働者あり、中には引返して再び来るものなどあり。殆んど際限なきにより、委員等遂に之を見兼ね、警官の手を煩はして、中途より之を謝絶するに至れり。
婦人の部 午前は商業会議所員夫人連と、自働車にて四十哩程廻走し、正午リーブ夫人方にて饗応を受く。
  附記、初めに定めたる順序に依れば、今夜は当地に一泊し、明朝パターソンに立寄る予定なりしも、都合により順序を変更し、即夜レッヂングに向ひ、明日午前を同地に過ごし、午後はベツレヘムに過すことゝなれり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.254-255掲載)


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