「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月26日(火) ウースターで公共事業等、スプリングフィールドで兵器製造所や公園を視察。伊藤博文訃報に一行驚倒、弔意を示し晩餐会を辞退 【滞米第56日】

「ウースター商業会議所」徽章

「ウースター商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿六日 火曜日 (晴)
午前零時五分ボストン市を発し、八時ウースター市に到着す、青渊先生を始め一行案内自動車に乗じ、同市庁を訪ひ、市長代理ロガム氏の歓迎を受く、氏は市長の認められたる歓迎文を朗読したるに対し、青渊先生は一行を代表して、歓迎の厚意を謝し、一行の渡米の理由及日米両国貿易発展の希望を述べられ、終りて予て同市商業会議所に依りて定められたる日程により、青渊先生は先づ下水清浄処を参観せられたり
  同下水清浄処は百五十万円の建築費を要し、米国有数の清浄処にして、化学的沈澱及濾過的洗澡の二法を用ひ、毎日二百五十万石を排水すと云ふ、宏大なる装置にして、市中の汚水をポンプ作用にて此清浄処に吸収し、之を濾過池に流出する中間に於て石灰水を加へ、汚物は凡て沈澱せしめ水丈流出せしむる方法なり
  而して其流出する水は、幾個かの水田の如き濾過池を過ぎて溝渠に流出するときは、殆と清水の如くなれり、尚沈澱したる汚物は別にポンプ式に依りて一処に送致し、茲に圧搾器機に附して水を搾り固形肥料を製造せり
右畢りて先生には市有農園を参観せらる、之れは貧窮者の為めに労役を与へ、衣食の資を得せしむる処なり、現在収容者百七十人、園の広さ吾百五十町歩、田畝あり、山林あり、果樹林あり、家畜あり、運動場あり、噴水池ありて、流出して園を流る、収容者の寝室・病室・室内運動場・浴場等を参観せられたり、因に此に飼育する家畜は豚を最も多とす、此の飼料は市民の廃棄に属する物品を収集したるものなりと云ふ
夫れより州中第一と称せらるゝ癲狂院を参観せらる、其位置高燥にして、美麗なる公園の一部を占め、眼下にクインシガモンド湖を臨み、地積百二十余町、現在収容患者千三百人、其設備整頓して院内清潔なり、一行は身の病院に在るを覚えざる程なりしが、婦人患者の病室・寝室等を参観したる丈にて、男子患者に対する設備を見る事を得ざりしは、時間に余裕あらざりしが為めなり、右畢りて零時半列車に戻り即時発車してスプリングフイルド市に向ふ
午後二時スプリングフイルド市に到着、青渊先生以下一行直に出迎自動車に分乗して、合衆国兵器製造所に至り、所長ラント大佐の案内にて五連発小銃の製造所・銃剣製造所等を巡覧し、夫れより千二百町の地積ありと称せらるゝフオレスト・パークを過ぎ、午後五時半列車に帰着す
此夜ネイアセツト倶楽部に於けるレセプシヨン及晩餐会に招待を蒙りしも、此日伊藤公爵薨去の報に接したるを以て、弔意を表して之を辞し、米国側の委員諸君丈け之に臨み一行は車内に在りて謹慎したり
先是今朝午後六時頃スプリングフイルド市のデーリー・レパブリカン新聞社は、記者を列車に送り、青渊先生に面会を求て、伊藤公爵の薨去を報し、且つ同公爵に関する先生の感想を求む、先生は容易に公爵の薨去を信せられさりしが、此悲報を打消すべき反対の証拠なきを以て、若し之を事実と為す時は実に日本帝国の為め哀悼の至りに堪へずとて、公爵が多年始終一日の如く帝国の為め尽瘁せられたる功績を語られたるが、遂に悲哀の念に堪へすして涕泣せらるゝに至れり、記者も大に同情を寄せ、又別席の外人等何れも克く仰き見るものなかりし折柄下車の時刻に迫り、歓迎委員等押寄せたるを以て談話を中止せられたり、先生の此談話は翌日の同新聞に掲載せられたるが、已に本年二月の本誌に訳載せられたれば略之
次きて午後スプリングフイルドに於て、外務省より紐育総領事館に宛てたる左の公電に接す
  伊藤公爵は二十五日午前九時ハルピン着下車の際、韓人数名の為め拳銃にて狙撃され、川上総領事其他二名軽傷を蒙むれり、公爵は午前十一時終に薨去せられたり
青渊先生の信せさりし悲報は、不幸にして事実たりしなり、先生始め一同愕然只長大息するのみ、於是先生は直に常議員会を招集して、公爵の薨去を報し、且一行は謹て弔意を表する為め歓迎晩餐会を謝絶することを決議し、一行に対しては左の通り通達せられたり
  伊藤公爵昨廿五日ハルピンに於て韓人の為に狙撃せられ、遂に薨去せられたるの悲報、紐育総領事館より転送を受けたり、依て直に常議員会を開き、スプリングフイルドに於ける一行に関する正式晩餐会中止を要求する事とし、一行の同地滞在中は勉めて静粛を旨とし晩餐は列車内に於て為し、市中に於て飲食せさる事
斯くして晩食後臨時団員総会を開き、決議の上団長たる青渊先生の名を以て左の弔電を発したり
 桂総理大臣宛
 伊藤公爵薨去の報に接し、実業団一同痛恨悲嘆に堪へず、団員を代表し帝国政府に対し謹て弔意を表す
 宮内大臣
 渡米中の実業団は、伊藤公爵薨去の悲報に接し
 聖慮を拝察して恐懼に堪へず、団員を代表して謹て天機を伺ひ奉る
又別に青渊先生一個人として
 伊藤公爵令夫人宛
 公爵閣下薨去の悲報に接し哀悼の至に堪へず、謹て弔詞を奉る
 井上侯爵宛
 伊藤公爵薨去の悲報に接し痛恨に堪へず、御心中遥かに御察申す
十一時卅分ニユーワーク市に向て出発す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.239-241掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第八節 ウースター及スプリングフィールド
十月二十六日 (火) 晴
午前八時ウースター市に着、一同市役所を訪ひ行政部室に於て市長代理ロガム氏の歓迎を受け、左の五隊に分れて各工場を視察す
第一隊下水清浄所・農園・癩狂院。第二隊、クラーク大学・ウースター工科大学・ウースター中学。第三隊、ウースター工科大学・封筒製造所・金剛砂石製造所・磨器械製造所。第四隊、針金製造所・諸農具製造会社。第五隊、紡績会社・コルセット会社・絨純製造会社。
十二時半特別列車に帰着、直ちにスプリングフィールドに向ふ。午後二時、同停車場に着、直ちに二十数台の自働車に分乗し、米国兵器製造所に至り、所長ラント大佐の案内にて、宏大なる各工場を参観し、帰途三百二十英加ありと称せる、市の公園内を過ぎ、五時半頃一同特別列車に帰る、今夕ネイアセット倶楽部に於て、接見会及晩餐会を催さるゝ筈なりしも、本団は今日伊藤公薨去の報に接したるが故に、弔意を表して一同之を辞し、只米国側の接待委員諸氏のみ之に臨む事と成れり。斯くて一同車内に謹慎の意を表し、深更ニユーワークに向つて発す。
是より先き、今朝我が特別列車のウースター停車場に着するや、報ずるものあり、伊藤公哈爾賓に於て、韓人数名の為めに暗殺されたりと。一同頗る危惧の念を以て、事の真否を知らんことを望む。已にして午後スプリングフイールドに於て、外務省より紐育総領事館に宛てたる公電に接す。原文下の如し。
  ○前掲ニツキ略ス。
嗟呼兇報は不幸にして真なりき。一同驚愕相顧みて太息するのみ。
即ち車内に晩餐後、臨時総会を開き、下の弔電を発す。
  ○総理大臣・宮内大臣・井上侯爵宛電文、前掲ニツキ略ス。
而して各地商業会議所等より、続々弔電に接す。又スプリングフィールド市の「デーリー・レパブリカン」新聞は、今朝直に記者を列車に送り越し、慇懃に悼詞を陳べ、尚ほ団長の之に対する感慨を叩いて去りしが、帰後其紙上に左の一文を掲げたり。以て米国人側に於ても、如何に同情を寄せしかを知るべし。
   △日本実業団の哀悼
     (実業団ウースターに於て伊藤公爵暗殺の報を聞く)
昨朝ボストン市よりウースター市に来れる名誉ある日本実業団は、伊藤公爵薨去の報に接し、半信半疑を以て、只管公爵の政治上に於ける功績を賞揚せしが、其よりスプリングフィールドに到着し、又此日本の政治家が暗殺せられたるの報が不幸にして正確なることを聞くや、実業団の団長にして、日本に於て最も卓越したる財政家渋沢男爵は、暫時深き感動に打たれ痛く流涕せられたり。而して団員は、何れも新日本の創設者、伊藤公爵の功績を賛称して、止まざりし。
団長渋沢男爵先づ口を開き語つて曰く、

  『伊藤公爵暗殺の報は甚だ突然にして余は之を信ずるを躊躇する程なり。然れども今や之を疑ふの余地なきが如し。果して事実となりとせば我国の損失は之に超るものなし。公爵は個人として甚だ寛大に、且つ仁愛の人なり。故に公爵に接近する人は、皆公爵を敬愛せり。然れども公爵は新日本第一の創設者たるを以て、其五十年間に於ける政治生涯中には、暗殺の危険に遭遇せられたること一再にして止まらず。然れども天恵に依り常に強壮の健康を保ち、尚ほ将来に於ても、日本の為めに多く尽さるゝ所あるべしと期待せられたるなり。
  公爵政治上の活動は多方面に渉れるが、殊に最も顕著なるものは憲法の制定是なり。憲法は 天皇陛下之を与へ賜へり。而して之れ我日本の政治上に於ける偉大なる変遷にして、此偉大の変遷は大に伊藤公爵先見の明に基くものなり。我国民は殆ど一斉に、伊藤公爵は 陛下の御信任最も深き元勲にして、公爵の薨去は 陛下の一大損失なるべきを認めん。
  公爵は、如何なる困難に遭遇するも屈せずして進める、最も忠節の臣なりし。五回総理大臣となり、公務の繁忙なる中に、多少動乱の状態に在る朝鮮の国務を整理することを考へ、之を以て公爵が国家の為めに尽す最上の途なりとし、政友の熱心なる忠告あるにも拘らず、進んで之れに赴き、其余生を之に捧げんとせられたり。
  朝鮮に関する公爵の政策は、朝鮮国王及其人民を指導して、日本に対する信頼を深くし、且つ極端なる暴挙に出で、徒らに其国運を危険に陥らしめざらんことを期せしに在りしなり。
  公爵の採れる朝鮮政策に対しては、外国に於て烈しく批難するものもありき。就中朝鮮の事務を処理する上に於て、余りに穏和的なりとの批評少からざりき、然れども公爵の政策は 陛下に於て日本及朝鮮に取り、最良のものと御信認あらせられたるなり。
  余が公爵との友情は、千八百六十九年、余が大蔵省の大丞にして公爵は其時一の「ミストル伊藤」なりし時に始まれり。其後公爵は同省の大輔となり(余の長官なり)爾来四十年間は、余の最も親密なる友人なりき。余は公爵の朝鮮政策を以て、最良のものと信す。又何人も公爵の個人的温情に富める人なることを知る。殊に公爵が 陛下に忠節なるは、天下挙って賞揚する所なり。日本人は誰にても 陛下に忠を尽さんことを願ふ。而も伊藤公爵の如きは、最も忠節の臣と云ふべし。故に 陛下と国の為めに其生命を擲つは、公爵の満足する所ならんも、余は今や国人と共に深く公爵の死を痛惜す」云々。
此処に至り、渋沢男爵は悲哀の感極まり、哀哭して又一語を発する能はざりき。
婦人の部 午前八時半ウースター婦人倶楽部員の出迎あり、自働車にて市中を観覧し、後婦人倶楽部を訪ふ。零時十五分頃、列車に帰る。午後二時スプリングフイールド婦人倶楽部員の出迎あり、自働車にてスミス大学を訪ひ、同所にて略式接見会あり、午後五時三十分頃列車に帰る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.252-254掲載)


参考リンク