「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月26日(火) 伊藤博文の訃報に対する弔電

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.542-546

 ○第三編 報告
     第二章 電信雑輯
○上略
マサチュセッツ州スプリングフィルド市滞在中、疑惧の間にありし一行は、十月二十六日在紐育山崎総領事代理より
  「伊藤公は十月廿五日午前九時哈爾賓着、韓人数名の為めに狙撃せられ、川上総領事其他二名軽傷を被むり、公爵は午前十時終に薨去せらる云々」
の公報に接したり。
紐育財政家ジヤコフ・エフ・シッフ氏より、渋沢団長に宛てたる弔電(十月廿六日ニユーワーク鉄道停車場にて接受)
  「予は辱知の栄を有せし伊藤公爵暗殺の報に接し恐愕に堪へず、此不幸は日本国のみならず世界の損失たり。此悪むべき出来事に対し、諸君の悲嘆の如何に大なるやは推知するに難からず、小生は深厚なる同情を以て、閣下及団員諸君に弔辞を申上ぐ。」
右に対し十一月二十九日レッディング市より、渋沢団長は同氏に対し
  「同情深き貴電に対し満腔の謝意を表す、此大政治家の薨去は、単に日本国の損害のみならず、東西両洋共に斯る先見の明あり、且つ達識の士を要すること極めて切なる今日に当つて、実に世界の損失なりと信ず」
と返電せり。
十月二十六日、ボストン日本協会及浪花倶楽部よりの弔電は、スプリング市に於て接受し、之れに対して
  「日本実業団は我本国の不幸に対し、親切なる弔電を賜はりたる日本協会及浪花倶楽部に感謝す」
との謝電を発せり。
市俄古商業協会会頭エドワード・スキンナー氏より
  「当会議所は、伊藤公の如き著名なる公人の薨去に因りて、日本及世界一般の被むりたる損失に対し、深厚なる哀悼の意を表す。何人か公の後継者として適当なる人士起ちて、以て貴国民を指導し、万国の福祉を増進せんことを切望す」
との来電あり、之れに対し渋沢団長は
  「貴下の弔辞に対し深謝す。我団も日本の一大損失に対して悲哀の情に堪へず、右貴商業会議所会員各位に然るべく伝達を請ふ」
と返電せり。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.267-268掲載)


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