「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月26日(火) (69歳) 渋沢栄一、伊藤博文の訃報に接する 【『渋沢栄一伝記資料』第57巻掲載】

日栄一、渡米実業団の団長として、アメリカ合衆国内を旅行中、スプリング・フィールドに於て、伊藤博文遭難逝去の報に接す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 3部 身辺 / 5章 交遊 / 2 伊藤博文 【第57巻p.417-419】

渡米実業団団長としてアメリカを訪れていた渋沢栄一は、1909(明治42)年10月26日、伊藤博文(いとう・ひろぶみ、1841-1909)の訃報に接しました。訃報は朝6時頃、渋沢栄一に面会をもとめてきたスプリングフィールド・デイリー・リパブリカン紙(Springfield daily Republican)の記者によってもたらされました。栄一は記者からコメントをもとめられ、当初は容易に信じられずにいたものの否定しうる証拠もなく、「もし事実とするなら」と伊藤博文の功績を語りながらも哀哭して言葉に詰まり、また下車の時間が近づいて歓迎委員が押し寄せてきてきたこともあり、インタビューは中止となりました。
その後、ウースターで午前中の見学を終え、スプリングフィールドに移動した後、外務省からのNY総領事館宛公文で事実が確認されました。

伊藤公爵は二十五日午前九時ハルピン着下車の際、韓人数名の為め拳銃にて狙撃され、川上総領事其他二名軽傷を蒙むれり、公爵は午前十一時終に薨去せられたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.240掲載、『竜門雑誌』第270号(1910.11)p.51-65より)

栄一は直ちに常議員会を召集して訃報を伝え、一行に対して「弔意を示すために晩餐会を辞退し、団員に対しては、滞在中粛清を保ち、晩餐は車中においてなし、市内にて飲食をしないように」と通達しました。晩餐後、臨時団員総会が開催され、団長名で総理大臣、宮内大臣宛に弔電が発せられました。またそれとは別に栄一は個人名で伊藤博文夫人、井上馨宛に弔電を発しています。
この時の栄一の様子や弔電等は『渋沢栄一伝記資料』第32巻と第57巻に各種文献から再録され、紹介されています。