「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月24日(日) 巌谷小波「ニューポートの雨の一日」(『太陽』第16巻第1号)

太陽』 第16巻第1号 (1911.01) p.197-200

    ニユーポートの雨の一日
      (ペリー提督の墓を訪ふの記)
                      巌谷小波
千九百〇九年十月廿四日は、恰も安息日であつた。即ち永へに天国に安息しつゝある、我が日東洲開国の恩人たる提督ペリーの墓を弔ふべく、否、寧ろ其霊に謝恩すべく、我が渡米実業団の団長、即ち所謂る平和軍の総司令官、渋沢栄一君は、ボストン滞在の一日を割いて、特に之に赴いたのである。之に随ふ者、曰く参謀長中野武営君・司令官附高級副官頭本元貞君・中野君副官加藤辰弥君、及び軍記編纂係、かく云ふ拙者小波、これに米国の接伴委員長ローマン氏・ボストン商業会議所委員某氏を加へて、同行都合七人であった。此日朝から秋雨は蕭々として客衣を湿ほす、けれども墓参には却つて恰好と、何れも停車場に勢揃ひをして、貸切列車に揺られながら出たのは、午前正九時である。提督の墓は、此所より汽車路二時間を隔てた大西洋岸の海軍要港、ニユーポートと云ふ所にあるが、蓋し地は提督の誕生の地にして、而も往生の地なのである。
已にしてボストン市の郊外を過ぎ、道はロードアイランド州に入って入江に沿ふて行く程に、折からの秋の錦は、雨の為めに一層の美観を添へて、昨夜の晩餐会に寝足らぬ眼にさへ、遂に居眠る間を与へなかつた。十一時計りに、ニユーポートの停車場に着くと、其所に市長ボイル氏は、これも先には軍人であつたと云ふ助役ヰーラア氏を伴うて出迎へ、待ち受けの自動車を駆つて、程近い墓所へと案内した。
     ○
墓所と云ふのは、即ち合同墓地であるが、只見る、その中央に径三丈計りを円く囲って、低い常磐木の生垣を繞らし、一面に芝を敷いて、所々に花壇を設け、入口に古い柏の木を二本、恰も門の柱の如く植ゑた中に、さして立派ならぬ白大理の石棺の据ゑてあるのが、即ち我等の目ざすそれで、左の側には夫人の名を刻み、右の方に提督の名を彫りつけてあるが、余所の墓石に見る様な、特別の辞句は見ゑず、只その名の上に牝鹿の頭を現はした、楯形の紋の刻りつけてあるのが、一寸目を惹く計りである。
団長はやがて帽を取って、尚も降りしきる秋雨の下に、携へて来た大花輪を捧げて、石棺に向つて礼拝をする。蓋し団長は、提督が渡来の当時、已に青年の身を以て、国事に心を砕いて居たのであるから、爾来五十余年の今日、平和の大使たる重任を負うて、此所に此墓を訪ふ胸には、正に万感の溢るものがあらう。さればこそ取りあへず、
  △おくつきに手向くる花の一束に
            涙の雨も添へてけるかな 栄一
と出来た。
次いで中野君、進んで慇懃に首を垂れ、
  △碑に目鏡ぬぐふや初時雨          随郷
を手向ける。引つゞき各々礼拝する中に、拙者も一句無かる可らず。
  △動けとや石打つ秋の雨しとゞ        小波
但し此時此際の涙は、決して哀悼の涙ではあるまい。むしろ感慨の涙である。さればこそ地下の提督も、此日比踵の参詣を受けて、必ず莞爾たるものがあったらう。それかあらぬか棺辺の花輪は雨にますます色を増して、一脈の芳香、さながら故人の意を伝ふるかと聞えた。
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一ト通り参拝が済むと、先刻から待ち構へて居たカメラは、更に一行を墓辺に立たせて、幾度かそのシヤッタアを働かせた。何事も器械国而も尚かゝる折に、故人の霊をも共に写し得ぬのは、時に取つての遺憾ではあるまいか。
写真が済むと、墓番の老翁は、直ぐ側の一堂に案内した。見れば百人とは入れぬ程のさゝやかな物であるが、其半ば蔦に包まれ、中には結構を尽した祭壇が由ありげに飾られて居る。これがペリー提督の愛孫で、富豪ベルホント家に生まれた娘の紀念の堂であると聞いては、更に床しさを感ぜぬには居られぬ。
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かくして一行は、思ひのまゝに墓参を遂げて、積日の宿意も全く達せられたが、さて帰りの汽車の時間には、まだ二時間も余裕がある。
於是乎、その時間を利用すべく市長は我等を案内して、この地の海兵団へと赴き、まづその司令官フラム大佐の家を訪ふた。
然るに大佐は、その不意の訪問を、却つて大に喜んで、ヰスキーソーダを出すやら、煙草をすゝめるやら、ある年日本へ渡航した事から、我が海軍の有力者に同窓生のある事など、写真の数々を示して語り出し、果は細君も其座に出て来て、種々の談話に時を移したが、中に最も珍らしく、我等の心を動かしたのは、その食堂の一隅に掛けてある古びた一面の銅版画であつた。
これはコロンバス・ビンツエナスと云つて、ペリー提督の渡来に先だち、即ち六十三年前はるばる我が邦を訪づれて、時節未だ到来せず、すげなくも追ひ帰された所を、当時刷物にしたものである。
思ふに我が邦でも、其頃は例の河原版か、或は錦画で伝へたもので、或は残つて居らぬとも限らぬ、然し兎に角珍とすべく、又、貴ぶべきものであると、頭本君は主人に托して、更に此種の物を得るべく求めた。
又此際助役ヰーラア氏は、曾て日本近海を航海中、図らず日本の漂流人を助け、これを神戸に送り届けて、大いに歓待されたと云ふ、昔話に花を咲かせて、主客時の移るを知らず、互ひの心に通ふ温気は、只にストーフの薪の力や、ヰスキーの効計りでは無かつた。
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其中にフラム大佐は、序に海兵の養成法をも見て行つてくれと云ふ。それ又望む所と、漸く家を辞して、大佐の案内するがまゝに、構内の海兵養成所を見た。
此所には五百人程より居らぬと云ふ事だが、それが数棟に別れた一種の寄宿舎の中に、規律的の生活をする有様は、生憎日曜日であつた為に、十分は見る事出来なかつた。兎に角も大佐の自慢する丈の事は、偶々道に会ふ程の生徒の、如何にも頼もしげな態度にも知られた。
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殊に驚いたのは、その年齢の頗る若い事で、聞けば十七歳以上の者は皆志願し得る規則だと云ふ。その外感心に値するのは、例ながら運動場の完備と、炊事場の整頓とである。当所の営舎には、つひこの間、久邇宮殿下も特に御来観があつたと云ふ。
思へば今日はペリー提督の墓に詣で、その帰途の道草には、頗る恰好の海兵団を見た。この数百の紅顔児の中には、今後また幾多の提督を出す事か。などゝ感嘆して居る中に、漸く中食の時刻に迫つた。
即ち大佐の好意を謝し、その東洋艦隊司令官として、必ず我邦に迎ふべきを約して、別を告げて食事に就いたのは、市内と云へ辺鄙な土地柄、一寸見は只のシモタ屋より見えぬ、但し名計りは天晴れ見事に、ベレビユー・レストランと云ふのであつた。
然し料理は棄てたものに非ず、而も三鞭まで抜いたので、市長は頗る恐悦の余り、三鞭を三杯以上傾けた結果が、玉山将に崩れんとする上機嫌に、果は頭本高級副官さへその通訳に少からず耳を悩ました。
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食後はむしろ運動の為めとあつて、市長は自働車のシヨーフハーに、海岸通りを廻るべく命じた。
海岸通りとは、大西洋に面した丘の上で、蓋し有名な別荘区域で、紐育に於ける富豪の多数は、毎年夏期を此地に暮らして、驕奢の限を尽くすのだといふ。
さればその邸宅の結構は、正に王侯を凌ぐ計り、堂々たる鉄門もあれば、好事な築垣もあり。松・槙・樅の緑の間に、槭楓の紅葉をあしらひ、それに芝の青、蔦の赤、草の花の黄紫など、天然の美を集め得たのも、人為の富の至る所と思へば、流石に金力万能の国と、今更ながら感ぜざる得ず、中にもバンダヒールドの別荘の如きは、毎年の夏の初に於て、その窓蓋を取り払ひ、硝子を磨く丈の工手間が、三千弗に及ぶと云ふ。
市長はさも我物顔に、此等の贅沢地を示した後、更に又市街へ出て、遂に一行を停車場に送り届けた。
その途中、とある小遊園の中に、海軍々人の銅像を見た。定めて提督のであらうと聞いたが、これはおなじペリーでも提督の兄に当る人だと云ふ。然しその遊園の前の今は小さな劇場に成つて居る所が、元とペリーの家のあつた所と、市長は流石に土地に委しい。
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かくて午後三時、絵葉書を買ふ暇も無く、急いで列車に乗り込むと、そのまゝ進行を初めたが、往きとちがつて還りには車中に暖気が通つて居るので、忽ち三鞭の酔が蒸し返へされ、云ひ合はさねど其所此所に首を垂れての楽寝の競争。
夢は五十年前の国史を漁さる中に、車は又一時間を走つて、再びボストンの都に帰つた。
雨はまだ降りやまず、はや暮れたアスパルトの大路には、家毎の電灯の影を映して、此所にも夜の錦をさらして居る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.264-267掲載)


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