「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月21日(木) ニューヨーク最終日。渋沢栄一は来訪者接待のほか、ジェイコブ・シフ主催の午餐会に出席  【滞米第51日】

竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.44-51

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月廿一日 木曜日 (晴)
紐育滞在一週間も匆卒の間に経過して、今夜十一時列車に帰着し、明朝は午前一時に発車する順序なりければ、一行は荷作等に余念なし
青渊先生には午前来訪の客に接し、正午はシツフ氏の招待に依りて、重なる委員と共に法律家倶楽部に催されたる午餐会に列せられ、主人側の挨拶に対して一場の演説を試みられ、午後三時帰宿、午後九時ホテルを引揚げ、自動車にて特別列車に搭乗せられたり、渡瀬・田村・南・原(竜太)の諸氏は此処にて分れ、加奈陀地方視察の途に上る
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.222掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月二十一日 (木) 雨
紐育市の富豪シッフ氏は、法律家倶楽部に席を設けて、渋沢男以下一行の主なる者を招き、叮重なる午餐を饗せり。来会者は何れも当代財界の有力者とす。今夕六時頃一同ホテルを引揚げ、それより散歩或は買物等をなし、十一時頃何れも列車に帰り、夜半ニューヘブンに向ふ。渡瀬・田村・南・原博士の四氏は、此処にて一行に別れ加奈陀地方視察の途に上る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.227掲載)


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