「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月20日(水) 自由行動。渋沢栄一はエクイタブル生命社長主催午餐会の後、タウンゼント・ハリスの墓へ 【滞米第50日】

竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.44-51

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月二十日 水曜日 (晴)
青渊先生には午前中信書を認められ、正午エクイテーブル生命保険会社々長バウル・モルトン氏の催にかかる法律家倶楽部に於ける午餐会に出席せられ、畢りて中野・巌谷氏等と共に、最初の駐日公使たりしタウンセント・ハリス氏の墓処に詣て、午後六時帰宿せられたり
此日先生詩歌あり
    弔故巴理斯公使墓
 古寺蒼苔秋色探   孤墳来弔涙沾襟
 霜楓薄暮燃如火   留得丹誠報国心
    同
 今もなほ君が心をおくつきに夕栄あかく匂ふ紅葉
午後八時より青渊先生にはアストル・ホテルに於て、日米紳士を招待して盛大なる晩餐会を催されたり、出席者は
米国人紳士
  シー・エー・コツフイン氏、ウヰリアム・スキンナー氏、ジエー・ヱツチ・シツフ氏、ヴイ・ピー・スナイダー氏、エー・ビー・ヘポバーン氏、ジエー・アール・モールス氏、エス・エル・ウートワード氏、イサツク・セリマン氏、ヘンリー・クリユウス氏、エス・デー・ウイツプ氏、チヤーレス・ホーマー氏、エル・ラツセル氏、ジエー・ジエー・マツクコク氏、シモンス氏、ホワイト氏、ノツクス氏、ローマン氏、外新聞社員十三名
日本人紳士
  水野幸吉氏 今西兼二氏 新井領一郎氏 村井保固氏 福井菊三郎氏 井上準之助氏 高峰譲吉氏 山崎馨一氏 中野武営氏 土居通夫氏 西村治兵衛氏 大谷嘉兵衛氏 松方幸次郎氏 岩原謙三氏 頭本元貞氏 堀越善重郎氏
の諸氏にして、青渊先生の挨拶に対しスキンナー氏外数諸氏の謝辞演説ありて、主客歓を尽して午後十二時解散せられたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.222掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月二十日 (水) 晴
正午より「エクイテーブル」生命保険会社長パウルモルトン氏、法律家倶楽部に於て午餐会を催し、団員の主なるもの之に出席す。尚渋沢男・中野氏は帰途、最初の駐日米国公使タウンセンド・ハリスの墓所に参詣し其霊を弔ふ。団長詩あり、曰く。
  古寺蒼苔秋色探。 孤墳来弔涙沾襟。
  霜楓薄暮燃如火。 留得丹誠報国心。
午後七時半より、渋沢男は一個人の資格を以て、日米紳士数十名をホテルに招待し、晩餐会を催す。之に応じたるものは高峰博士・今西・新井・村井・福井・井上、コツフイン、スキンナー、シッフ、ウィラード、ワンダリップの諸氏、其他団員の主なる者等なり。
本日午後華府大使館より、天長節当夜の招待状を受く。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.227掲載)


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