「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月15日(金) 昼はハドソン川・イースト川より沿岸を視察、夜は在ニューヨーク領事主催晩餐会。渋沢栄一は風邪のため晩餐会のみ出席 【滞米第45日】

竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.44-51

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月十五日 金曜日 (晴寒風強)
午前十時より紐育商人協会の案内にて、西四十二丁目の波止場より汽船に乗じてハドソン河を下り、港内の状況、水陸連絡の状態を視察し夫より東河を遡り、ブルクリン橋を見、ハーレム河を経て、マツハツタン島に沿うて再びハドソン河に出で夕刻帰宿の筈なりしも、青渊先生には前日来の風邪恢復せられさるを以て同行を見合はせられたり
午後七時半青渊先生には少敷快方に赴かれたるを以て、水野総領事のシヱリー料理店に於て催したる晩餐会に出席せられ、午後十一時帰宿せられたるも、為之健康上何等障の無かりしは、大に慶賀すべき事なりし
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.218掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月十五日 (金) 晴
午前十時紐育商人協会の案内にて自働車に分乗し、西四十二丁目波止場より汽船サガモーアに乗組み、先づハドソン河を下り、自由女神像の辺より、マンハッタン島の南端を一周し、転じてブルクリンと紐育との間なる東河に入り、各沿岸を見物す。船中にて午餐の饗応あり。後ち河を溯りてハレム河に至り、再びハドソン河に出で、六時ホテルに帰る。
今夕は水野総領事の催にて、団員の重なるものと、紐育市の重立たる日米人とを、料理店ジェリースに招きて晩餐会あり。出席者は渋沢男・中野氏・神田男・土居・松方・大谷・西村・上遠野・頭本・岩原等の団員、及紐育在住の福井・今西・村井・新井・井上の諸氏並に山崎領事官補、高峰博士、ヘンリー・クリュース、セスロー、ウツドフォード将軍、バンタイン、スナイダー、ドクトル・ジヨンヒンレー、マククック大佐、ヲルター・ページ、セリグマン教授、コフヒン、ウイリァム・スキンナー、リンド、セーラッセル、ローマン、ハイド、クラーク、オスボーン、ストルマン、ムアー、グリーン、エリオット、グード、バッカハム、ロセン、バーカー等の諸氏、当日事故の為め欠席せしはシヤコブ・シーフ、メルビルストーン、ロバート・トムソン、ドクトル・ニコラス・パットラー、フランシス・ルーミス、バンダーリップ、ハミルトン、ホルト等の諸氏なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.226掲載)


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