「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月14日(木) 昼はニューヨーク商業会議所、夜に日本倶楽部主催レセプション。渋沢栄一、風邪のため初めてレセプションを欠席 【滞米第44日】

竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.44-51

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月十四日 木曜日 (晴)
午前中は休息の時間割なりければ、青渊先生には室内に在りて信書を認められ、午後零時半より、一行と共に紐育商業会議所に於て開催せられたるレセプシヨンに出席せらる、当日同会議所の議題は米国航海奨励法を設くる事を政府へ建議するの議案なりしが、一行は討議中の議場に案内せられたれば、親しく其の状態を見たり、稍ありて議長は議事未了のまゝ中止を宣し、議員一同に向つて青渊先生を紹介す、依て先生は起ちて大要左の如き演説を試みらる
  シヤトル市到着以来、西部・中央の各都市二十四・五ケ処を経て当大都会に入れるは、恰も山間の小川を渉りて遂に大河に出たるの感あり、西部・中央の各富源地より生ずる各種工業の河流が、総て此地に集注し来れるを見て、米国全体の繁栄の本末を始めて相照らし得たるを喜ぶ
  蓋し十九世紀は大西洋の文明なりしも、二十世紀は太平洋の文明ならざるべからず、而して東西相対せる日米両国が、互に親和提携するの要は言を俟たず、日本国土小なりと雖ども、亦為に応分の力を尽さんと欲す、之に就て或は競争の憂あるも、其争や君子の争たるに於ては、決して忌はしき結果の生ずべくもあらず云々
夫より午餐に移り、畢りて青渊先生には一ト先帰宿せられ、再度午後八時半日本倶楽部主催のレセプシヨンに出席の筈なりしも、風邪の気味にて中野氏に団長代理を依頼し、ホテルに在りて加養せられたり
  青渊先生には東京出発以来五十七日、シヤトル上陸以来四十四日、行程三千四百哩、到る地の商工業視察、到る為の饗宴、其他一として一行に先立たれ、また嘗て欠かさせられたる事なかりしが、此日屋外寒気特に烈しかりし為め、風邪に犯され、不得止欠席せられたるは真に遺憾とする処なり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.217-218掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月十四日 (木) 晴
午前一同ホテルに休息し、午後零時半より、紐育州商業会議所の接見、及午餐会に列す。恰も航路補助案の議事中なりしが故に、暫時之を傍聴し、後歓迎式・接見会を了り、階上に午餐の饗応を受く。会頭シモンス氏の歓迎辞に次いで、渋沢男、大要左の如く演説を為す。
  ○前掲ニツキ略ス。
午後八時半日本倶楽部主催の接見会あり、一同出席す。会長高峰博士の歓迎の辞、水野副会長の演説、中野氏の答辞等あり。茶菓寿司の饗応を受け、三鞭の杯を挙げて健康を祝し成功を祈る。会するもの男女二百余名、実に一時の盛を極む(団長は不快の為め欠席す)
備考 紐育商業会議所
世に紐育商業会議所と云ふも、実は紐育市の商業会議所に非ずして、紐育州商業会議所なり。
千七百六十八年四月五日(米国独立前)に組織され、後千七百七十年三月十三日に至り、英国々王(当時英国の殖民地たりし)故ジョージ第三世の認可を経て、法人組織となりたり。
千七百六十九年以来、此商業会議所の集会は、普通ブロード街最末端なる「エキスチェンジ」(取引所)と称せられたる建物の、最大室に於て集会するを常とせり。爾来各所に会場を転じ、現在の建物は千九百二年に築造されたるものにして、建築技師はベーカー氏なり。
前米国大統領ルーズヴェルト氏の、千九百二年十一月十一日の演説中に曰く「紐育の商業会議所は、国外に対しても、国内に在つても、平和の捷利を援助する為めに、終始一貫の態度を執るものなり」と
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.225-226掲載)


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