「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月12日(火) ニューヨーク到着、コロンブス米国発見の日および前年同日の米国実業団訪日を記念して午餐会開催。夜は三井物産の招待で純日本式宴会 【滞米第42日】

竜門雑誌』 第269号 (1910.10) p.28-31

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六君
○上略
十月十二日 火曜日 (晴)
午前六時半紐育市グランド・セントラル停車場に到着す。
○中略
車中にて食事を終り、歓迎委員の案内にて青渊先生以下一同自動車に分乗して、ホテル・アストルに投宿す、此日は彼我時間の都合に依り青渊先生を先頭に、一行凡て同ホテル第一階アストル接見室に集合して、公式来訪者に接見する事と為り、十時商人協会の代表者、十時十五分絹業協会代表者、十時四十五分日本協会及平和協会代表者、十一時四十五分ホワイト博士の来訪を受けたり、畢りて同室に於て団員総会を開く、青渊先生議長席に就き、左の議案を決議したり。
一 桑港滞在日数を三日とする事、但内二日は米人の歓迎に供し、一日を日本人の歓迎に費す事
 十一月二十七日桑港に到着、当日は日本人の歓迎と留別会に充て、二十八・二十九の両日を米人の歓迎に充つる事
一 米国人側委員及同国人にして、一行の為めに特に尽力したる人々に対し、紀念品を送与する事、但此費用は正賓四百弗以上、専門家百五十弗以上、婦人百五十弗以上、政府より任命を受けたる人々百五十弗以上、随行員は随意の事
報告
一 シラキユース市に於ては、一行のホテルの支払を商業会議所に於て負担し呉れたるに付き、感謝の意を表する為め、即日金弐百五十弗を同会議所に送付し、適当の事業に使用せらるゝ事を得は本懐なる旨申遣したり、此の事後承諾を請ふ事
明治四十一年の本月本日は、日本に渡来したる米国実業団の日本上陸の紀念日なれば、之を祝さん為め青渊先生以下一行主人側と為り、同行米国人を招待して同ホテル十階の広間に於て紀念午餐会を開く、青渊先生主人側を代表して、米国人に対し、本日は恰も渡日米国実業団の日本に上陸したる日にして、又コロンバス氏の米国発見の日に相当するを以て、其紀念の為めに宴を開く旨を述べ、且同行米国人の甚大なる厚意を謝し、又中野武営氏は六商業会議所を代表して均しく謝辞を述べたるに対し、米人側を代表してポートランド市のクラーク氏答辞を述べ、日本に赴きたる米国実業団は、各地到る処に於て歓待を受けたるを謝するは勿論なれども、取り分け渋沢男爵が多忙なるにも拘らず、同一行に対し厚意を与へられるを深謝す、仮令男爵此度米国に来る事無きも、其愛嬌に富める笑ひ顔は忘るゝ事能はさるなり、タフト大統領は一度笑ひば人に無限の感情を与ふるが、男爵も同様なり云云、又日本に赴きし実業団員中の二人死亡したり、其一は布哇、其一は桑港のものなり、茲に鍼黙の杯を挙げて両氏を弔らはんと欲す云々畢りて一同屋上の庭園に至り紀念の撮影を為す
右終りて午後六時半より日本倶楽部に於て、三井物産会社岩原謙三・福井菊三郎両氏主催の歓迎会に招かれ、青渊先生以下一行之に赴き、同社員其他の本邦人と合せて百余名、二室に別れて純日本式料理の饗を受けたるが、去九月一日シヤトル市に於て織田一氏の饗応後四十二日目の日本食、其上毎宴会外人と睨み合ふのであるが、今日は凡て是れ日本同胞のみ、久振りに箸を手にして気も伸びりして、落付て食事するを得るとて一同大満足なりし、午後十二時辞してホテルに帰る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.215-216掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月十二日 (火) 晴
午前六時三十分予定の如く、紐育中央停車場に着す。午前九時下車商業会議所員を始め、市民及び在留日本人多数の歓迎を受け、直に出迎の自働車に分乗して、九時三十分、ホテル・アスタアに入る。
午前中は左の商人協会・絹業組合・商業会議所・日本協会及平和協会等諸団体代表者の公式訪問あり、渋沢男を始め、各商業会議所会頭、其他之に応接す。
十一時半事務室に総会を開き、中野委員長座長となりて、左の事項を決議す。
  一行の帰途、桑港到着の当日、即ち土曜日及翌々月曜日の二日を桑港主人側に与へ、日曜日は午前教会、午後日本人側の招待会及留別会に充て、火曜日午後一時乗船の事、
  前総会に於て宿題となりたる、接伴委員に対する贈品の費用として、団員より寄附を仰ぐべき予算の概略は、正賓は四百弗以上、専門家は百五十弗以上、婦人は百五十弗以上、政府特派官吏は百五十弗以上、随員は主人側及本人の意見に依り、随意寄附の事と定む。
次に渋沢男は、今朝スミス氏の訪問を請けしが、今夕機械学会の大会ありて、コーネル大学教授カーペンター博士の、防火法に関する演説ある筈なれば、原林・田辺・高辻三氏の臨席を望むと述べ、即ち右三氏出席の事に決す。右卒りて、第八階に特設の食堂に入り、団員及び接伴員一同は、クリーブランドに於ける決議に基き、紀念の為め小宴を張る。即ち太平洋沿岸の実業家が横浜に上陸せしは、昨年十月十二日にして(其内当時来日せしは、今回の一行中ローマン氏及クラーク氏なり)而かも十月十二日はコロンブスが米大陸発見の紀念日なり。此日を以つて、我が一行の紐育に入りしも亦奇なりと云ふべし。
席上ハイド氏先づ立て祝杯を挙げ、次で渋沢男爵は本団を代表し、中野氏は六会議所を代表して、所感を述べ、次にポートランドの代表者クラーク氏は、昨年日本に赴ける同行者にして、既に他界に入れる者の為めに、緘黙の乾杯をなし、桑港代表者ストールマン氏は少時本団と別るゝも、十一月十八日再びサクラメントにて会せんとて、別杯を傾け、次にロスアンゲルスの代表者オスボーン氏も、加州に於ける再会を期して杯を挙げ、且つ加州に於ける排日問題に付いて、羅府は之に与せざる旨、熱心弁ずる処あり、次に領事グリーン氏は一行の婦人の為めに健康を祝し、最後に一同又ローマン氏夫妻の健康を祝し、主客胸襟を開き、歓を尽して宴を了り、更にホテル屋上園に於て、紀念撮影を為す。
此夜三井物産支店主催の招待にて、一同は日本倶楽部に至り、純日本式の晩餐を饗せらる。接伴員側の米人諸氏も亦之に列す。席上エリオット氏は自今彼我相互の間に、増々諸般取調の便宜を謀らんとの発議あり。一同賛成の意を表し、更に委員に挙げて事務を附托するに決す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.222-223掲載)


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