「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月12日(火) (69歳) 渡米実業団一行、ニューヨークに到着 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、栄一等渡米実業団一行、ニュー・ヨーク市に入り二十一日まで滞在す。十月二十日、タウンゼンド・ハリスの墓に詣づ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.215-235】

渡米実業団団長として訪米した渋沢栄一は、ニューヨーク滞在中にアメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・シンプソン・グラント(グラント将軍)(Ulysses Simpson Grant、1822-1885)と初代駐日大使タウンゼント・ハリス(Townsend Harris、1804-1878)の墓を訪れました。栄一は、アメリカ各地で行った演説の中でも折に触れてペリー、ハリス等に言及、彼等の果たした役割を「忘るべからざる記念にして永く恩恵を感銘する処」であるとし、日本人が先覚者、指導者である米国に対して敬意の念を払っていることを表明しています。この時の墓参について、帰国に行ったスピーチの中で栄一は次のように語っています。

   ○京浜渡米実業家帰朝歓迎会演説
                (明治四十二年十二月二十日)
     ○渋沢男爵の演説
[前略] 「コンモードル」ペルリが長夜の夢を覚まして呉れた、其後タウンセント・ハリスが条約締結に付いて、種々注意を与へて指導して呉れた、爾来米国は種々の事に付いて我邦に幇助を与へて呉れた、故に吾々は真に米国を先覚者とし指導者として深く敬意を払つて居る、良い感情を持つて居ると云ふことを、衷情から申して居りました、其事が確に先方に透徹したと云ふことを私は証明し得るに余あると思ひます、別に形容しやうとは思ひませぬけれども、右様な心を持つて居りました為に、先づ第一に紐育ではグラント将軍の墳墓に御詣りを致しました、又其他知名の人の墓詣でを致しました、続いてボストンに参りました時に新港といふ処に「コンモードル」ペルリの墓がございます、是にも御詣りを致しました、其他或は曩に国務卿たりしヘー[ジョン・ヘイ]と云ふ人の墓参もしましたし、又ジヨンソンといふ州知事の死去を聞いて悼辞をやると申すやうな訳で、それぞれ注意致して敬礼を尽しました為に、右等の行動に付きましても、成程日本人は亜米利加に対して、決して唯々口先で軽薄を申すのではない[、]衷心より良い感情を持つて居ると云ふことを、多数の人が見て呉れただらうと思ひます、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第50巻p.416掲載、『銀行通信録』第49巻第291号(1910.01)p.37-42より)

ペルリ提督墓前の実業団代表者
ペルリ提督墓前の実業団代表者
左より 巌谷小波、栄一、中野武営、加藤辰弥、頭本元貞。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10 p.108掲載)