「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月9日(土) シラキュース到着。発電所、タイプライター製造会社、運河築造、シラキュース大学等を見学。歓迎委員にフルベッキ(William Verbeck) 【滞米第39日】

「シラキユース商業会議所」徽章

「シラキユース商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第269号 (1910.10) p.22-28

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六君
十月九日 土曜日 (曇)
午前一時三十分オーバーン市に到着、同二時発車し、三時十五分シラキユース市に到着、車内にて朝食を済まし、八時半下車、停車場に於てレセプシヨンあり、歓迎委員中の一外人、先づ青渊先生に対して日本語にて団長渋沢男爵と呼び、長途の旅行を犒ふ、一同不審の思にて日本語にて挨拶すれば、即ち流暢なる日本語にて応対す、氏はベルベツキ大佐と称し、彼の日本文明の補助者たる有名なるベルベツキ博士の一子にして、十八歳の時迄日本に在住したりと云ふ。
一行は仍例出迎自動車に分乗して、各方面の観察に運ばれたるが、青渊先生は、此市より十六哩を隔てたるバルドウインスビル村に到り、紐育州の計画に成る運河の築造を見る、此運河はバツフアロー市と紐育市に開鑿せらるゝ者にて、中間に存在する湖水・河水の用ひらるべき者は凡て利用し、長さ四百五十哩にして、バツフアローよりシラキユース市まで百五十哩、シラキユース市よりオーバーン市まで百五十哩、オーバーン市より紐育市まではハドソン河を利用し、此長百五十哩にして総費用一億一百万円なりと云ふ、此運河の目的は重に穀物の輸送にありて、鉄道運賃を低下せんとするにあるも、俄に急を要する雑貨等は鉄道に依る外無かるべしと、案内委員の一人は語れり、帰路は電車に乗じて、一週間前迄開会せられたりと云ふ紐育州立勧業博覧会の跡を一覧し、十二時半オノンダガ・ゴルフ・カントリー倶楽部に於て午餐の饗を受け、午後二時シラキユース大学に到りて、総長デイ氏の案内にて体育館を一覧す、数百人が兵式体操を為し得る如き広大なる室、遊泳練習の温水池なども見、又漕艇術練習室を見る、此室には二艘の模造ボートが長方形の水槽内にバネ仕掛に結び付けられ、水を機械の作用にて順又は逆に勢克く流し、恰も河流にて漕艇するが如き練習を室内に於て為す仕組なり、日本の学校にても此設備あらば生徒は大に仕合せならんと思はれたり、此隣地に一の大なるスタヂウムあり、楕円形を為せる大芝生の周囲にコンクリトにて観覧席を十二段築き上げ、二万人の見物人を優に収容する事を得ると云ふ、宏壮なる競技館なり、恰も此日当大学の選手とロチエスター大学の選手とフートボール競技あり、双方の応援隊此観覧席に在りて、一人の指揮者の号令に依りて声援歌を合唱す、其声の壮大なる体度の厳粛なる、サスガ文明国の学生なりと大に感服したり、三時オノンダガ製塩会社に到り、天日製食塩製造の様を一見し、更に曹達・アンモニア等を製造するソルヴヱー・プロセス会社の外部を一周して、ヤツツ・ホテルに帰り、服装替の上、同ホテルに於て開かれたる晩餐会に列し、青渊先生一行を代表して演説を為し、夜半帰宿せられたり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.180-181掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十六節 シラキュース市
十月九日 (土) 晴
午前三時十五分シラキュースに着、同八時三十分停車場にて歓迎式あり。市長フォーブス氏・商業会議所会頭ミーチェン氏の歓迎の辞あり、同九時三十分一同自働車に分乗し、左の各製造所・工場等の見物に赴く。
  シラキュース電灯発電所、ナイヤガラ水力電気シラキュース配電所、バーヂ運河、スミス・プレミヤー・タイプライター製造会社、警察本部、中央高等学校、シラキュース低能児教育所、シラキュース医学校、各種病院、ブラオン・ギーヤ製造会社、モナーク・タイプライター製造会社等
午後零時三十分オノンデージゴールなる田園倶楽部に於て、午餐の饗応を受け、食後はジェームスビルを過ぎて、シラキュース大学に至り、ジムネジューム(体操場)に於ける歓迎式に臨み、それより各教室運動場等を見物し、後シラキュース対ロチェスターのフートボール試合を見物す。夜はエーツ・ホテル内に晩餐会あり。長く日本に滞在したる宣教師フルベッキ氏の子息フルベッキ中佐司会し、次に判事アンドリュース氏、天皇陛下の万歳を唱へ、団長之れに答へて、大統領の健康を祝し、次にシラキュース大学総長デイ氏は日米の国交に就て頗る同情ある演説を為し、神田男之に答へ、次に当地有名の弁護士スチルヱル氏・中野氏・水野総領事等、代る代る立て一場の演説を為す。
婦人の部 正午出迎の自働車に乗り田園倶楽部に向ひ、同処にて午餐の後、午後二時ジェームスビルを過ぎてシラキュース大学に至りシラキュース対ロチェスターのフートボール競技を見、それよりオノンデーガコース精塩会社、ソルベー・プロセッス会社を訪ひ、午後四時半バンネット公園遊覧、午後六時半ミセス・バッサード方の晩餐会に招かる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.195-196掲載)


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