「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月8日(金) イサカでコーネル大学等を見学。初代総長ホワイト、午餐会で「水」の重要性を説き、一同「水」で乾杯 【滞米第38日】

竜門雑誌』 第268号 (1910.09) p.21-27

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十月八日 金曜日 (晴)
午前四時ロチエスター市を発車して、同七時十五分イサカ市に到着、朝餐を車中に済まし、九時半出迎の自動車に一行分乗してコーネル大学に向ふ、此市は人口一万五千、内五千の男女は大学学生なり、左れば民情も敦朴にして一行の巡行途中街衢の両側は老若男女の歓迎人にて充され、且処々日章旗さへ掲げて一行に対する誠意を示されたり。大学に向ふ途中、一の製塩会社を参観したるが、地下三百呎乃至千呎の塩層に水を注入して溶解したる塩水を喞筒に依りて吸上し、之を製塩するの装置なりし、次きに銃砲製造・時計製造会社を参看して、十一時大学に着し、先づ農科の講堂にて総長代理として分科大学長デーン・チヤーレス・エッチ・ハル氏歓迎の辞を述べ、青渊先生は一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且大学総長の不在は名誉なる旅行の為めなる由を賀し、更に語を継きて、実業の根原は学問に在り、米国の凡ての方面の発達は全く学問の行届ける結果なりとす、当大学の堅固なる発達は其位置する地勢より推考し得べく、又善良なる卒業生を輩出して米国を益する事は、当大学の整頓せる設備より推察することを得べし云々。
夫より農工理化等の各教室を見て、女子部寄宿舎セージ・カレージの食堂に於て午餐の饗を受く、此大学最初の総長たりしアンドリー・テリー・ホワイト氏起ちて、現総長は一年間の約束にて、米国各大学総長会議の議長となりて旅行中なればとて、其代理として歓迎の辞を述べ、予の日本人を始めて知りしは二十年前なりし、日本の矢田部博士は当大学の出身なり、日本人は正義を重する国民なり、最近の二大戦争に於いて日本人は真に人道の為めに戦ひたるなり、予は日本人を愛し日本国を尊敬するものなり、日本の学生を歓迎するものなり。
予は信ず、世界に水程大切にして結構なるものは無し、茲に水杯を挙げて日本皇帝陛下の万歳を祈り、併せて平和の使節たる一行諸君の健康を祝す。
青渊先生は一行を代表して答辞を述へ、一行が当大学に出でゝ各分科大学の参観を許され、其設備の完備したる、建物の宏壮なる、土地の奇麗なる状態を親敷観るに及んで、若し入学年齢の制限無きものなれば、予も又二・三年の入学を許されたしと思ふ程なり、予等一行シヤトル上陸以来到る処款待を受けたれど、当校に於ても不尠利益を受け且つ愉快なる歓迎を受けたるは頗る深謝する処なり、日本の大学は文明の未だ幼稚なると、国民の力未だ薄弱なる為め、凡べて政治上の力を藉れり、反言すれば、日本の大学は政府の大学なり、注入的教育なり、命令的教育なり、然るに今此の校の有様を見るに、学生は自習的なり、我国の夫れと正反対なり、予は学問には縁の薄きものなれど、教育の自習的ならざるべからざるを知る、斯る当大学の状態を見て、ソゾロに日本教育を顧みるに到れり、是れ当市の与へられたる紀念なりとす、終に臨んで大統領閣下の健康を祝し、併せて米国民の健康、当大学の隆昌に対し、祝杯を上ぐ云々。
右畢りて再度自動車に依りて校内其他の地を参観して、午後五時一と先列車に戻り、服装を改め午後七時イサカ・ホテルに集合す、来会者主客約二百人、内過半は教育家なりし、司会者の演説に次きて青渊先生は一行を代表して答辞を述べ、茲に終日当市の款待を蒙り、大学・中学・各種製造会社を参観して、各種の有益なる智識を得たる上、尚今夕茲に盛宴を張りて饗応せられたるは頗る感謝する処なり、一行渡来の理由は米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招待に依りたるものにて九月一日シヤトル上陸以来、各地を巡回して学問の進歩と物質的進歩の偉大なるに驚嘆したり、爾来路を進め歩を進めて当地迄来りて、又一層の感情を諸君より受けたるを悦ばずんばあらず、一行の使命は実業を発達するに在りて、何等政治上の意味を有せざるなり、吾々の渡米は日本の上下一致挙て賛成したる処にして、蓋し日本国民が当国に対する真情を表はしたるものなり、本日は朝来諸君の厚情に依りて高等学校・大学等を参観したるが、午後諸工場を見物し得さる程大学に於て時間を費したり、蓋し工場の小なるにあらずして、大学の是迄見たるより大なりしが為めなり、頭上に英語にて友を選へと書されたる額を見る、吾々の当国に来りし意味は此数語にて尽されたり云々、次ぎに二・三の博士演説ありて十時半解散、直に列車に帰着し、十一時ヲーバーン市を経てシラキユース市に向て発車す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.178-180掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十五節 イサカ市
十月八日 (金) 晴
午前七時半イサカに着、八時四十五分コーネル大学教授連、及市内有力者の歓迎を受け、出迎の自働車にて直にコーネル大学に向ふ。
同十時同校農科大学に着、特別講堂に於て、総長代理農科学長ハル氏の歓迎の辞あり。渋沢団長之れに答へ、終つて一同は農科大学校舎内の農具・牛乳・乾酪・牛酪等の製造所を参観し、夫れより各自希望に随ひ、文科・法科・機械科其他各科を巡覧す。同科植物栽培としては、バファロー、ロチェスター等の、各地方一帯の林檎樹を主とせる由にて、目下の重要なる研究事項は、林檎樹害虫駆除法に在りと。又農科大学より発行する通信教授の校外生は、無慮十四万人に及ぶと云ふ。以て此農科大学が、如何に重要視され居るかを知るに足らん。
此間神田男は別に大学構内バーンス・ホールに至り、階上の講堂に於て、我が日本の実業教育並に教育方針に就き演説し、次で教育勅語を朗読す。午後一時「セージ・カレージ」と称する、女学生寄宿舎の大食堂に導かれ、此処にて午餐を饗せらる。時に総長は、目下ボストン市に開会中なる大学総長会議に出張不在なるを以て、当大学第一期の総長として二十余年間勤務し、後ち露西亜・独逸等駐在の大使として令名ありし、博士ホワイト氏座長となり、歓迎の辞を述ぶ。尚ほ席上にコルキン氏在り。氏は曾て当大学に英文科教授として就任されしことあり、詩人としても令名ある人にして、白髪白髯、殆んど歩行さへ自由ならざる老体なるも、進んで此席に列せしは、特に一行の感動せし処とす。
午後二時半頃同所を辞し、歓迎委員の先導にて、バーヂックスの新設州道を通りて、湖岸を過ぎ、三時頃水塩製造所に至る。同所は地底二百呎以上二千呎を掘り下げ、塩層に達すれば水を流下して塩分を溶かし、喞筒を以て吸上ぐ仕掛となれり。同所を発して十数丁、暦時計製造所及風琴製造所を一覧し、次にイサカ中学校に立寄る。校長の先導にて大講堂のプラットホームに着席、男女学生千余名は歓迎の歌を合唱し、神田男は数分間の演説を為し、又勅語英訳を同校に贈る。次に校長の希望に依りて、渋沢男も簡単なる演説を為し頭本氏之れを通訳す。
夫れより鉄鎖製造所・小銃製造所等を訪ひ、五時半頃一先列車に帰る。此市商業会議所主催の晩餐会は、六時四十五分よりイサカ・ホテルに催さる。市長ランドルス・ホートン氏司会し、イサカ法科教授として有名なるウッドラック氏の演説あり。今夜の宴席には「友を択べ」との渋沢男の訓戒を、英文にて認め額に掲げ、又特に「ヘール・ジャパン」と題する新作の唱歌を日本語にて作り、主人側婦人之れを謡ふ。蓋し此地の大学には本邦人の在学せしもの尠からず特に多年本邦米国大使館日本語訳官たるミラー氏の郷里とて、大に我に好意を表せり。十一時頃一同列車に送られ、直にシラキュースに向ふ。
婦人の部 午後四時トレンマン夫人の接見会に臨み、七時より同夫人宅の晩餐に招かる。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.194-195掲載)


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