「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月7日(木) 在カナダ領事より外務大臣宛に報告「一行に対する加奈多側の態度」

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.609-612

 ○第三編 第九章 雑件
     第三節 一行に対する加奈多側の態度
在晩香坡矢田領事が、十月七日附を以て、小村外務大臣に報告したる所に依れば、一行がナイヤガラ瀑布観覧に赴きたる際、加奈多側に至りしに、加奈多政府は、前に日本駐在貿易事務官たりしプレストン氏を接伴委員として一行を款待し、一行は此待遇に満足し、プレストン氏の歓迎の席にて、渋沢団長より加奈多政府の好意を謝し、尚ほ日加両国の友交的関係の鞏回なることを、加奈多政府に伝達されんことをプレストン氏に依頼し、且つ又此友交的関係が今後益々増進すると共に、加奈多の驚くべき発展が、永久に継続せんことを希望する旨を述べたる趣きなるが、元来我実業家一行が、米国渡来に付いては加奈多地方の新聞紙は、最初多少の忌味を述べたる外(米国を訪問して加奈多を訪問せざるに付き)其後頗る冷淡無頓着にして、米国新聞に於ては、日々一行の行動を通信批評するに拘はらず、加奈多側の新聞紙は何等の報道をも記載することなし。右は一は事日米両国民に関係するが故なりと雖も、又一は加奈多の有力者及び新聞紙が、日加貿易の将来に就き大なる興味を有せざると、尚一は加奈多人は、一般に保守的にして、米国民の如く派手好き、狂熱的ならざるとに帰因するものにして、敢て日本との友情に関し冷淡なるにはあらず。云々
尚ほ在オッタワ中村総領事より、小村外務大臣に宛てたる報告に依れば、プレストン氏は同領事に内談して、成るべく実業団を加奈多へ同伴せしめ、モントリール市に之れを招待する計画なりしも、実業団の都合に依つて、実行覚束なき模様なりし為めに、せめてはナイヤガラ瀑布観覧の際に於てなりとも、相当の好意を表し、便宜を計らんとの考にて、同氏より商務省へ協議を遂げたるに、同省に於ても大いに賛成を表したる由なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.201掲載)


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